『ブギウギ』生母との再会 ドラマでは描かれなかった笠置シヅ子の真実
れんげ摘もか、たんぽぽ摘もか
『ブギウギ』21話では、主人公のスズ子(趣里)は、実の母のキヌ(中越典子)と会った。
その生母が、スズ子の父違いの弟だろう幼な子を抱いて、子守唄を歌ったシーンは泣けた。
「れんげ摘もか、たんぽぽ摘もか、今年のれんげ、よう咲いた……」
養母(水川あさみ)が、あんた小さいころ、これ歌うとえらいご機嫌になっとったんやでと言っていたことをおもいだしたとたん、生母の歌を聞いて、テレビを見ながら滂沱の涙をながしまった。
母の子守唄というのは、人の心にただ迫ってくる。
一軒家の農家で再会しているドラマの母娘
ドラマの実母との再会は、街からはずれた一軒家の農家だった。
そこにあがりこんで、二人で向かい合わずに、鈴子は奥に向かってまっすぐ座り、生母はその背中に話していた。
なぜ、あなたを産んだあとに養母(ツヤ)が育てることになったのか、そのことをきちんと語っていた。
ただ、このドラマのモデル、実在の歌手、笠置シヅ子が、自伝に書いている風景は違う。
『歌う自画像 私のブギウギ伝記』(原本は昭和23年発行北斗出版社、復刻本は令和5年発行宝島社)に、その再会のシーンを書いている。
笠置シヅ子の出生の秘密
笠置シヅ子は、生まれてすぐに、同じころ近所で出産した亀井うめに添え乳してもらったのが縁で、もらわれる。
そのまま大阪へ連れ帰られ、亀井静子ととして育てられた。
親の愛情をたっぷり注がれて育てられたようで、数え18になるまで自分が養女であることはまったく知らなかった。
それが香川に寄ったとき、突然、知ってしまう。
大きな衝撃を受ける。
それはドラマにも描かれたとおりである。
ただ細かいところが、違っている。
自伝に描かれる実父の生家「白塀さん」
笠置シヅ子の自伝にも「白塀さん」が出てくる。
ドラマ『ブギウギ』でもシラカベさんと呼ばれていた家のことであり、シヅ子の実父の家である。
昭和23年、34歳の笠置の絶頂期に書かれた自伝では、生母のことを「白塀さんの女中さんだった」と記している。
白塀さんの跡取り息子と女中さんのあいだに出来た親も許さぬ隠し子だった、とのことで、おそらく周りから聞かされた伝聞を記憶で語ったものだろう。
村の年寄り連中が語っていたばかり
笠置シヅ子は数えで18の夏、気管を悪くして香川に療養に行った。
そのおり、親戚に頼まれて、「白塀さんの法事」に出向いた。それは実父の十七回忌の法要であったのだが、シヅ子本人はその時点では知らされていない。
このころ白塀さんは落ちぶれて「馬小屋で暮らしていた」と書いている。本当なのかどうかわからない。
踊りを頼まれて、醍醐の花見を踊っているとき、村の年寄り連中が酔っていろいろ喋るのを聞いてしまった。
祖父は、お坊さんを送るために座をはずしており、それで気の緩んだ酔った連中が「よう大きうなった、仏も喜んでおるやろお」「菊が生きとったらこの家に呼び戻されとったじゃろうに」とつい大きな声で話をしたらしい。菊、は亡くなった実父の母、つまりシヅ子の実の祖母にあたる人で、このときもう故人であった。
シチュエーションはドラマと同じだが、白塀さんの実際の縁戚の人らは何も喋らず、村の連中が噂話を声高に語っていたばかり、というところが大きく違う。
学校の裏の畳屋の隣り
踊りながらこれを聞いたシヅ子は、戻って従姉に問いただすも答えてもらえず、叔母に直接聞いて、事情を知った。
生母が法事の席に顔を出していて、大きくなったシヅ子をそっと見に来ていた、というのは本当らしい。
そして叔母は「そのおなごはんは学校の裏の畳屋の隣りで仕立屋の看板を出しているげに、すぐわかりまっせ」と、行けとも行くなとも言わずに、伝えてくれた。
それが笠置シヅ子の記すリアルである。
小川にズブズブと肩まで入る
「学校の裏の畳屋の隣」というのが、ドラマと違う。
ドラマのような一軒家の農家ではなく、学校裏の仕立屋だったというディティールを知ると、貧しさが迫ってくる。
叔母から事実を聞かされたあと、ドラマでは松林のなかを叫びながら走っていたが、自伝のシヅ子は、町はずれの小川に、服のままで肩まで入った。
ドラマと違って、生母の家に行く前に川に入ったのだ。
浅瀬に寝転がったわけではなく、自伝によると、お風呂に入るように肩までズブズブと入った、としている。まあ、これはリアルに映像に撮ったら、死のうとしているようにしか見えないから、避けたのはわかる。
いかにも暗闇から出てきた人のように陰気
川から上がって、身体が冷えてきて、生母に会う決心をする。
学校裏に行ってみると、仕立屋はしまっていて「鳴戸いと」との小さい紙の表札があった。(そのあと鳴門と、表記が変わってもういちど名前が出ている)
そこへ、六歳くらいの男の子を連れた三十半ばの女性が帰ってきてシヅ子に気づき「あんたはんでしたの、まあまあよう…」と声をかける。
「まあ、家へ入っておくれやす、わてな、今日あたり、きっとおいではるおもうてな、待ってたんだっせ」と案内される。
近くで見るあの人は、いかにも暗闇から出てきた人のように陰気で、顔色も悪く、肩がげっそりと痩せ細っていました、というのが笠置シヅ子の印象であった。
他人さんの子のように語り出す生母
彼女は、話をするが、名乗りを上げない。母だとは言わない。
わては若いころは方々へ女中奉公で渡ってたんで、あんたはんがこの町にいた小っちゃいころ、ようお守りしたことがございました、よう泣きはって、こっちまで泣きとうなったことがありまして、と、他人さんの子を抱いたように語り出した。
シヅ子はいたたまれなくなって、家を飛び出してしまう。
笠置シヅ子は金無垢の置き時計をもらう
でも家のすぐ外で泣き崩れたので、生母は追ってきて「悪うおました、気い悪うせんとお帰りやす、あんたはんに一度でも会えたら心残りはござりまへん、これでもうお目にかかることもないでっしゃろ」と言うばかりである。
シヅ子が、どなしたらええかわからんわ、と泣き崩れていると、これを、といって「金無垢の置き時計」を渡してくれた。
ここはドラマと同じである。(ドラマは懐中時計でしたが)
ただ生母は、父のものだとは言わず「わてがいのちより大事にしてたお方が形見に残しておくれやしたもの」とだけ言う。
その方はあんたはんをよう知っとる方で、わての手からあんたはんの身のそばに移ればきっと喜んで下さりますけ、と渡してくれた。
名乗りあわない母と娘
どちらも母と娘とわかっていながら、ついぞ、名乗り合わない。
これはこれで、浪曲の泣かせの場面を聞いているみたいで、胸をつかれる。
ドラマの生母との対面も切なかったが「自伝に描かれた風景」は、より貧しく、リアルで、胸に迫る。
あの時代の田舎の空気に貧乏が漂い、読んでいてただ切ない。
生母も白塀さんもどうなっているのか知りません
自伝から時代を換算するとこれは昭和6年、数え18のことで、それから昭和23年になるまで会ったことはなく「生母も白塀さんもどうなっているのか知りません」と書いている。
病弱の人だったからもうおそらく今の世にはいないのではないでしょうか、と淡々と書いていて、それはそれで哀しみが滲んでいる。
評伝に書かれた後日談
いっぽう、『ブギの女王・笠置シヅ子』という評伝がある。
著者は砂古口早苗、平成22年に現代書館から刊行され、その13年後の今年令和5年に潮出版から文庫本で出されている。
ここでは自伝を出したあと、昭和25年の生母に関する後日談が記されている。
こちらでは生母の名は「谷口鳴尾」とされている。少し違う。
また実父の生家(白塀さん)は、シヅ子の自伝では「住友」としているが(シヅ子はそのことをやや自慢げに記している)、この評伝では「三谷」である。
巨大な知識人・南原繁のやさしさ
昭和25年、当時の東京大学総長、南原繁がシヅ子に直接に連絡をとってきた。
南原繁は当時、注目されていた知識人である。総理大臣の吉田茂と対立し、総理から名指しで非難されるほどの大物であった。
南原繁は、笠置シヅ子実父「白塀さん」のごく近くの家で育ち、一歳違い、小中と一緒に過ごしていた。まさに幼馴染みの友人であったらしい。
笠置シヅ子に連絡を取り、実父のことを語ってくれた。
シヅ子の生母「鳴尾」は、三谷家の女中ではなく由緒ある家の出だったことも知らせてくれたのだ。巨大な知性でありながらも、やさしいおじさんである。
それを聞いて、シヅ子がいかほどのおもいを持ったのかは、語られていない。
ドラマと自伝の違い
ドラマの展開は、多くの部分で笠置シヅ子の自伝に拠っている。
ただ生母の家が「学校裏の仕立屋」であったことと「生母と娘はついぞ親子の名乗りを上げなかった」というところが違っていた。
まあ、笠置シヅ子が主人公ではなく、福来スズ子が主人公だから、それでいいんである。
どちらにしても胸つかれる話である。
おそらくこの先「れんげ摘もか、たんぽぽ摘もか、」という母の子守唄のみが、私は強く記憶に残ってしまうとおもう。
と書いているだけで泣きそうだ。