【戦国こぼれ話】戦国時代には馬が重要だった。長篠合戦だけではない、馬の活躍ぶりを検証する
三重県伊勢市の「ともいきの国 伊勢忍者キングダム」では、引退した競走馬を飼育している。戦国テーマパークで乗馬すれば、戦国武将の気分になるという。実は戦国時代において、馬は重要な乗り物だった。今回は、戦国時代の馬を取り上げてみよう。
■独特だった日本固有の馬
最初に、戦国時代の馬とはどのようなものだったのか考えてみよう。日本の馬の在来種は小型馬、中型馬であり、さながらポニーのような馬であった。
現在、日本の競馬や乗馬で用いられるのは、外来種のサラブレッドである。馬は農耕だけではなく、戦闘時にも用いられていた。特に、武将にとっては、切っても切れない縁があるのだ。
平安時代以降、儀式として「競馬」などが行われた。やがて、馬を走らせながら、馬上から的を射る「流鏑馬」などが盛んになった。それは単に儀式に止まらず、武芸を競い合う一面があったといえる。
馬を乗りこなすことは、武将にとって必須のことであった。やがて、武士の軍事力は朝廷などに頼られ、台頭のきっかけを作ることになる。
各地の戦国武将たちは、配下の者に馬術の鍛錬を奨励した。伊勢宗瑞(=北条早雲)は、自身が制定した「早雲寺殿廿一箇条」のなかで、「奉公のすきには馬を乗ならふべし」と定めている。続けて、最初は馬の達人に習い、手綱さばきは稽古で鍛錬せよと述べている。
ところで、乗馬というのは男だけの専売特許ではなかった。一例を挙げると、天文21年(1552)に今川義元の息女が武田晴信(信玄)の嫡男・義信のもとに嫁ぐとき、「女房衆の乗鞍馬百匹」が随行したという(『妙法寺記』)。
■贈答品になった馬
馬は太刀とともに武将たちの間で贈答が行われた。たとえば、室町・戦国期に諸国の守護は、盛んに将軍へ献馬を行った。当時、威勢が衰えたとはいえ、守護が将軍とつながることには、権威という側面でメリットがあったようである。やがて、献馬は大名間にも広がる。
では、馬はどうやって手に入れたのだろうか。天正5年(1577)6月、織田信長は安土城(滋賀県近江八幡市)下に近江国中の売買は当地でのみ行うこと、という掟を定めている(『竹橋蠧簡』)。
また、馬の目利きもいたようで、森長可は伯楽として名高い道家弥三郎なる者を用いていた(『兼山記』)。弥三郎は馬の選定や調教により、褒美を得ていたようだ。
ちなみに、伯楽とは馬の素質の良し悪し見分ける人を意味するが。のちに転じて、人物の素質を見抜き、その能力を引き出し育てるのがうまい人も示すようになった。
馬は東北地方に名馬が多いとされ、大変高価であった。武将によって、馬を購う際の意見はさまざまで、竹中重治は馬に必要以上のお金をかけてはいけないと説いた。馬を失うことを惜しんで、戦いに専念できないからだ(『常山紀談』)。
それゆえ馬といえば、戦争と大きな関係があった。
■戦争と馬
良い馬に恵まれない武将は、不運であった。天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いが勃発したとき、加藤清正は馬に乗って出陣したが、どういうわけか馬が足を痛めてしまった。
同僚から馬の吟味が足りないと注意されると、清正は働きぶりでは負けないと言い、敵の名馬を奪って見せると苦々しく抗弁したという(『清正記』)。
天正13年(1585)、豊臣秀吉は反抗する土佐の長宗我部元親を打ち破った。元親配下の谷忠兵衛は、長宗我部方の敗因を馬の質に求めている。
豊臣方の馬は太く馬具も華やかなので、1000騎が2000騎に見えるほどであった。しかし、長宗我部方の馬は、細くて馬具も貧弱で、1000騎が500騎くらいにしか見えなかったという。
馬を用いた戦争といえば、やはり天正3年(1575)の長篠の戦いが有名であろう。従来説によると、織田・徳川連合軍が3千挺の鉄砲の三段撃ちによって、武田の騎馬軍団を打ち破ったといわれてきた。
しかし、現在では武田氏に近代の軍隊のような騎馬軍団は存在せず、当時の戦闘では下馬して戦うのが通例であったことから、疑問視されている。まだまだ検討の余地があるようだ。
このように戦国時代の馬は重要であり、注目すべきかもしれない。