Yahoo!ニュース

ドラマ『DCU』が見せた日曜劇場の「新たなパターン」 その「意外な」ルーツとは

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:つのだよしお/アフロ)

(ドラマ『DCU』のネタバレしています)

謎解きドラマだった『DCU』

日曜劇場『DCU』は「海の警察」もののドラマであった。

最初の設定を聞いたとき、海猿のように、とにかく海に潜ることを中心に事件を解決するのかとおもっていたが、それ以上に「謎解き」ものであった。

始めのころこそダム湖や能登の海に潜る姿が描かれたが、後半はたとえば「水族館の水槽」や「温泉の大浴場」に潜って、事件の証拠を探すシーンが描かれている。あまり海猿ではない。

あくまで捜査のための潜行しており、あまり人の命を救うために身体を張って現場に向かう、ということはなかった。

この不思議な感じがドラマ『DCU』の魅力となっていた。

「犯人が意外な人物」の繰り返し

ドラマとしては事件解決もの、それも「怪しいとおもった人物は実はいい人で、犯人は意外な人物」というストーリーが繰り返されていた。

日曜劇場としてちょっと珍しい。

たとえば5話では、副大臣の秘書がとても怪しげに動いているから彼が何か事件にかかわっているのかとおもいきや、じつはとても良心的な人物であり、それよりも瀬能にとっての「いい先輩」が悪いやつだったとわかる。

8話では、ホテルの支配人の娘の行動が怪しく、疑わしい人物であったが、実は彼女はDCUメンバーを助けようと動いていたばかりで、真犯人はべつにいた。

最終話までミスリードされた「本物のワル」

最終話まで、つまりドラマ全体の流れで、次長がかなり悪のように描かれていたが、実際のところはDCUの味方のはずの部長がワルであったという結末であった。

成合淳もまた、本当の悪なのかどうかわからないまま、このへんはわざとなのだろう、その正体がうやむやのまま終わっていた。

よくわからない人物の「怪しい動き」をたくさん見せて、こいつが犯人かもとおもわせながら、意外なところに本当のワルがいる、という展開をだいたい1話ごとに見せていた。その事件は1話ごとにだいたい解決する。

そして全体の構成でもまた「怪しい動き」を見せたものはワルではなく、意外なところに真のワルがいた、という展開を見せた。

日曜劇場に出現した昭和風味のパターン

日曜劇場は「理不尽に逆境に落とされた主人公が、敵(ワル)を打ち負かし、ふたたび正当な地位に戻る」という「逆転ドラマ」で人気を維持してきていた。

ところが2022年のドラマ『DCU』での展開は違っていた。

「意外な真犯人」の連続で畳みかけてきたのだ。

これは、かつて大人気だった「2時間ドラマ手法」でもある。

「2時間ドラマ手法」とは

2時間ドラマは、1話で事件を解決するドラマである。

真犯人はだいたい最初は「いい人」として登場し、それとはべつの人物が犯人らしい行動をするのでそのミスリードによってドラマが進展してゆく。

最後になって主人公が真犯人を突き止めて白状させる。

それがたびたび崖の上で行われたので、その印象が広まっている。

このパターンが1980年代に大人気となり、一週間に4本も5本も作られていた。

いまもなくなってはいないが、見る機会が減っている。

間隙を突くように、その手法をふんだんに『DCU』は取り入れていた。

昭和の王道「2時間ドラマ手法」を巧みに使っていたのだ。

ミステリーの王道とも言える手法である。

ミスリードされると楽しいドラマ

怪しい人物に引っ張られて見入っているうちに、最後は意外なラストを迎える。

それが気持ちいい、という構成である。

こういうドラマを見ていて気持ちよくなるためには、ミスリードされたときに、余計なことを考えずにきちんとミスリードされていく、ということが言える。(人それぞれではあるが)

まあ、ふつうにきちんと騙される、と楽しいということだ。

そうしていれば、最後の「意外な犯人」の登場に驚くことができるし、そこにカタルシスがある、ということになる。

2時間ドラマを見る昭和の風景

昭和の昔、2時間ドラマを家族で見ていると、父さんがいきなり「いや、こいつが怪しいな」と勝手な推理を口にするものであり、「ちょっと静かにしてよ」と子供が返していると、「いま、崖から落ちたの、人形よ!」と母さんが叫んだりして、それはそれぞれの家庭の楽しみ方である。

おそらくひとり視聴が増えている現在だからこそ、この昭和な手法を盛り込んだ『DCU』が受けたのではないだろうか。

わかりやすいミスリードを楽しむ人が多かったという気がする。

『DCU』3話の衝撃とその効果

もうひとつ、『DCU』で印象的だったのは、3話で隊員が死んだところである。

成合隊員が殺された。

3話で重要メンバーが死んで、まどマギかよ、とちょっとおもったのだが、予見できる展開ではない。

衝撃であった。

そのため、後半になって、隊員たちの誰かが危ない目に遭うと(たとえば最終話で、密室の時限爆弾の解除ができなかったときなど)、3話のことがあるから、ひょっとして2人め、3人めの殉職があるんじゃないかとどきどきしてしまう。

このへんの構成も見事だった。

前半での衝撃的なシーンによって、それがじわりと見えない部分で効いてきたのだ。

スリリングさが増した。

スリリングさが見ものだった『DCU』

真犯人をなるべくわからないようにする、という設定は、つまりスリリングさをより強く感じてもらいたいという意図を持ったドラマだということだ。

いろいろスリリングなシーンが毎回、用意されていた。

国境を越えようとする快速艇や、水族館に向かって海中を走る爆弾、それらを阻止するためにDCUメンバーは懸命に動く。よく走る。いつもぎりぎりである。

ふつうのドラマなら、たぶん時間内に間に合うのだろうとおもって見ていられるのだが、このドラマは「3話で重要隊員が死んだドラマだからどうなるかわからんぞ」とおもわせることによって、よりスリリングさが増していたのだ。

終わってみれば、してやられた感じがする。

それはそれで楽しい。

『DCU』が見せたパターンと日曜劇場の可能性

『DCU』は、これまでとは違う日曜劇場のドラマパターンを見せ、成功した。

逆転パターンではない「ただスリリングな展開」でも評価を得た。

それによって日曜劇場のこれからの展望が広がったと言えるだろう。

この先のシリーズがどちらになるのか、また別のパターンを作り出すのか、日曜劇場そのものが楽しみである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

堀井憲一郎の最近の記事