羽柴秀吉の関白就任前、摂関家で大問題になっていた関白の座をめぐる争い
今回の「どうする家康」では、ついに羽柴秀吉が関白の座に就いた。しかし、秀吉が関白に就任する前、摂関家で関白の座をめぐって争っていたので、その経緯を説明しておこう。
日本史上に関白という職が初めて登場するのは、宇多天皇が仁和3年(887)に太政大臣の藤原基経を任命したときといわれている。
関白には、「百官の上奏に関り、意見を白す」という意味がある。10世紀末頃からは、天皇が幼少のときには摂政を、成長してからは関白をそれぞれ置くことが慣例となった。
やがて摂政・関白の職は、藤原氏北家が独占し、藤原道長以後はその子孫が継承した(摂関政治)。鎌倉時代以後は、五摂家の近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家が、交代で摂政・関白の職を務めるようになった。
したがって、秀吉が関白に就任したという事実は、計り知れないほどの重みと衝撃があったのである。
羽柴秀吉は、すぐに関白に就任したわけではない。天正13年(1585)3月には、正二位・内大臣に叙位・任官された(「木下家文書」)。秀吉が高い官職を強く意識し出したのは、前年11月頃からであると指摘されている。それは奇しくも、秀吉が信雄・家康と和睦を結んだ頃である。
それまでの秀吉は京都市中や畿内を掌握するなど、もはや一宿老の枠に収まらない存在となっていた。秀吉が高い官職を臨んだのは、本格的に天下人を意識した証左にならないだろうか。
秀吉が関白になったのは、関白相論がきっかけだった。関白相論とは、二条昭実と近衛信輔が関白職をめぐって争い、その相論に乗じて秀吉が関白に就任した一連の出来事のことである。天正13年(1585)5月の時点で、関白以下の任官の予定は、下記のようになっていた。
①関 白・二条昭実―――一年程度の在職ののちに辞任。
②左大臣・近衛信輔―――関白(左大臣兼務)。
③右大臣・菊亭晴季―――辞任。
④内大臣・羽柴秀吉―――右大臣。
関白職が五摂家の持ち回りになっていたので、このような予定で進められていたが、この人事計画が思わぬ波紋を巻き起こした。この人事計画に反対したのが、ほかならぬ秀吉だった。
秀吉の主だった織田信長は、右大臣を極官(最高の位)として、天正10年(1582)6月に本能寺の変で横死した。この事実をもって、右大臣に転任するのは縁起が悪いと言い出したのである。
秀吉は信長の「凶例」を避けるため、右大臣でなく左大臣への就任を要望した。現在のわれわれには、迷信らしきことを信じるのは違和感があるが、これが当時の人々の感覚であった。ちなみに、右大臣よりも左大臣の方が高位である。
その点を考慮すると、秀吉は右大臣が不吉極まりない官職であると主張するが、本当にそのように思っていたのか、いささか疑問が残る。実際は、より高い地位の左大臣を望んでいたのだろう。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)