若き頃、人質になったことがある3人の武将とは?
戦国武将が同盟を結ぶと(あるいは臣従したとき)、その証として人質を交換することがあった(婚姻によるものもある)。若き頃、人質になったことがある武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎毛利隆元(1523~1563)
隆元が元就の子として誕生したのは、大永3年(1523)のことである。当時、毛利氏は大内氏に従っていたので、元就は子の隆元を大内氏のもとに人質として送ることになった。隆元の「隆」の字は、大内義隆の「隆」の字を与えられたものである。
隆元は山口(山口市)で人質生活を送ったが、その生活は決して悪くなかった(『毛利隆元公山口逗留日記』)。人質時代の隆元は、大内氏の重臣の内藤興盛、江良房栄らと良好な関係を結んだ。隆元が吉田郡山城(広島県安芸高田市)に戻ったのは、天文9年(1540)のことである。
◎真田信繁(1567?~1615)
信繁が昌幸の子として誕生したのは、永禄10年(1567)のことである(生年は諸説あり)。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、武田氏旧領は上杉、北条、徳川の3氏による争奪戦がはじまり、真田氏はその狭間で苦境に追い込まれた。
3年後、昌幸は上杉氏への従属を決意し、その証として信繁を越後に人質として送った。その後、豊臣秀吉の威勢が高まると、昌幸は秀吉に臣従した。その際、信繁は人質として大坂に送り込まれた。信繁は、2度も人質になったのである。
◎黒田長政(1568~1623)
長政が孝高の子として誕生したのは、永禄11年(1568)のことである。孝高は羽柴(豊臣)秀吉の与力となり、織田信長に従うことになった。その証として、長政は天正5年(1577)に秀吉の居城の長浜城(滋賀県長浜市)に送られた。
翌年、荒木村重が信長を裏切ったので、孝高は村重に翻意を促すべく有岡城(兵庫県伊丹市)に赴いたが、捕らわれの身となった。事情を知らない信長は、孝高が裏切ったと思い、長政を殺すよう命じた。その際、竹中重治が長政を密かに引き取り、事なきを得たのである。