弓の名手として伝わる3人の武将とは?
武将にとって、武芸の嗜みは重要なことで、弓もその一つだった。弓の名手として伝わる武将は数々いるが、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎源為朝(1139~1170?)
為朝は為義の子で、義朝の弟である。その身長は約2mといわれ、強弓を自由自在に操ったという(『保元物語』)。のちに為朝は、「無双の弓矢の達者」と評価された(『吾妻鏡』)。保元元年(1156)の保元の乱で、為朝は五人張の強弓を用いたという。
平清盛の軍勢が攻めてくると、為朝は強弓で平家方の伊藤忠直を射抜ぬくと、その矢は忠直の後ろにいた忠清(忠直のきょうだい)の鎧の袖に刺さったという。忠清は清盛のもとに矢を持参すると、あまりに太い矢だったので、清盛は驚き恐怖したと伝わっている。
◎那須与一(生没年不詳)
与一は謎の人物で、『平家物語』などの軍記物語にしか登場しない。治承・寿永の乱では、源頼朝に味方して出陣した。伝承によると、与一は幼い頃から弓を得意とし、その腕前に父も驚いたという。元暦2年(1185)の屋島の戦いで、与一はその腕前を披露した。
平家方の船に乗った女官が竿の先に扇の的をつけると、源氏の武将に射させようとした。源氏の武将がしり込みする中で、引き受けたのが与一である。与一は神仏の加護を願い、外したら自害する覚悟で臨むと、見事に的を射抜いたのである。
◎平教経(1160~1184?)
教経は教盛(清盛の弟)の子で、「王城一の強弓精兵」といわれる武将だった(『平家物語』)。大山祇神社(愛媛県今治市)は、黒漆平苧巻の平教経が奉納したという伏竹三枚打の弓を所蔵する。その活躍の舞台の一つが、元暦2年(1185)の屋島の戦いである。
教経は源義経を討つべく孤軍奮闘し、弓で源氏方の武将を次々射殺した。そして、義経を守ろうとした家人の佐藤継信を矢で射たのである。ところが、教経はその前の一の谷の戦いで死んだとする史料(『吾妻鏡』)もあれば、その後の壇ノ浦の戦いで死んだという説もある。