織田有楽斎は徳川家康が豊臣方に送り込んだスパイではなかった
本年1月31日、サントリー美術館で『四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎』が開催される。私も行く予定だ。
有楽斎は茶人として知られた教養人ではあるが、やや地味な存在である。ところで、有楽斎は徳川家康が豊臣方に送り込んだスパイなどと酷評されているが、それが事実なのか考えてみよう。
織田有楽斎(1547~1622)は実名を長益といい、信長の弟である。信長が天下人になり、歴史の教科書などを通して誰もが知る存在なのに対し、有楽斎の知名度はあまり高いとはいえない。
強いていうならば、有楽町(東京都千代田区)の地名が有楽斎にちなんでいることは、ご存じの方がいるかもしれない。有楽斎は数寄屋橋御門のあたりに屋敷を構えており、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていた。明治以降、有楽斎の屋敷跡にちなんで、有楽町と称されるようになった。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死すると、有楽斎は豊臣秀吉に御伽衆として仕えるようになった。御伽衆とは主君の身辺に仕え、武辺咄などをして楽しませる役である。
有楽斎は後述する茶のほか、礼法に通じる教養人だった。秀吉の御伽衆として、適任だった。剃髪して「有楽」と号したのは、天正18年(1590)のことである。
有楽斎は千利休に茶を学んだが、むしろ独自の方法論を確立し、それは有楽流と称された。元和4年(1618)、有楽斎は建仁寺に正伝院を再興し、そこを住みかとした。その際、正伝院に二畳半台目の茶室「如庵」を作った。「如庵」はのちに愛知県犬山市に移され、現在は国宝に指定されている。
慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、有楽斎は微妙な立場になった。有楽斎は徳川家から大和国内に3万石を与えられる一方、豊臣家の家臣として仕えることになった。このように、徳川家と豊臣家の両方に仕えた者はほかにもおり、大野治長や片桐且元も両家に仕えていた。
それゆえ、後世の編纂物あるいは講談などで、有楽斎は「豊臣家を滅亡に追いやった張本人」、「徳川家から豊臣家に送り込まれたスパイ」などとさんざんな評価を与えられたのである。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が開戦すると、有楽斎は治長らとともに牢人衆の積極的に打って出る作戦を否定した。結局、有楽斎らは弱気な作戦を採用し、牢人衆を煙たがったことから、先述したように酷評されたのである。しかし、その評価は決して正しいとはいえない。
有楽斎らが籠城戦を主張したのは、大坂城が堅固な作りだったからである。また、牢人衆は血気盛んで、徳川方との戦いの勝利を目指していたが、有楽斎らは和睦でことを収めようとしていた。こうした路線の対立もあり、豊臣方は徳川方との徹底抗戦派と和睦派に分かれた。
有楽斎はその間で両者をまとめようとしたが、それが叶わず、さんざん悩んだ挙句、豊臣家を辞したのである。したがって、従来の有楽斎に対する悪い評価には大きな誤解があるので、見直す必要があろう。