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「差別批判」がブラック企業を増長させる? 就職差別批判の黒い罠

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

「学歴フィルター」に潜む罠

3月30日、朝日新聞の一面で「これって、学歴フィルター?」との記事が載った。

http://www.asahi.com/articles/ASG3T3CDMG3TUHBI00K.html

一般に、企業が、採用する学生の学歴をあらかじめ絞り込むことが「学歴フィルター」と呼ばれている。記事では、インターネット上から採用説明会にエントリーする際に、日大の学生にだけ「満席」と表示された事例が問題視されていた(上智大の学生は「満席」表示にならなかった)。

確かに、「学歴」によって、はじめから採用の選考外に置かれてしまうのは気の毒な事態ではある。だが、すべての学歴の学生に、企業は平等に採用選考の機会をあたえるべきだという主張は、正しいのだろうか?

実は、一見「正論」にも見える「学歴フィルター批判」にはとんでもない罠が隠れている

誰が「コスト」を払うのか?

まず、企業は本当に学歴に関係なく評価して採用できるのだろうか。

実際の企業が採用・選考にかけられるコストにも限度がある。

人気企業であれば、毎年何千人も応募することもある中で、何千人、何万人も、学歴では判断できない人間性や経歴を誰が・どうやって、調査するのか。こんな人数に面接を繰り返せば、莫大なコストがかかってしまうだろう。

こうした事情があればこそ、企業は「学歴フィルター」を用いざるを得ないのである。

もちろん、インターン制度や各種学生との接点を持つための企画によって、「一本釣り」的に人材を発掘することもあるだろう。

朝日の記事でも、「他人より遠回り」した経験を評価する企業も現れ始めたとし、五輪の強化選手、弁論大会の優勝者、レスリングの日本王者、などを採用したソフトバンクを挙げている。

また、青年海外協力隊(JICA)に対する企業求人が急激に増加しているという。

確かに、独特の経験をした方々に、仮に大卒ではなかったとしても、特別の能力があるという場合もあるだろうし、人間的に魅力的な人も多いのかもしれない。

だが、スポーツでの実績や、「他人より遠回り」した複雑な経歴が、「必ず優秀な人材」であることを意味しているわけではない。

こうした個人の多様性や、採用者の好みによる「偏り」を回避しようとすれば、綿密な、複数回に及ぶ、多数者による面接が必要になり、結局多大なコストがかかってしまう。

だから、これらはあくまでも「少数採用」においてのみ威力を発揮する選考方法であって、その他大勢の大量の応募者をふるいにかける有力な方法にはならないのである。

このようにして、「採用」という企業の行動を効率的に行うためには、「確かな基準」が求めているのであって、決してただ「学歴を無視しろ」とか、「とにかく自由に」といっても仕方がないのだ。

ブラック企業との親和性

さらに、「学歴フィルター批判」は、実はブラック企業擁護論と親和的である

すでに学歴に関係なく「採用選考しろ」という社会的な圧力のもとに、企業は学歴で差別することなく採用活動を行っている。その結果、何が起こっただろうか。

すべての学生は「大企業」への採用の道が開かれることになった。そうであれば、「少しでもチャンスがあるなら」と挑戦しようと思う学生は少なくない。

同時に、一人でも多くの学生を大企業に送り込んで実績にしたい大学は、力の限りを尽くして「大企業を目指せ」と在学生をキャリア教育で煽り立ててきた。こうして皆が大企業を目指すようになっていった。

だが、当然何千人もエントリーする大企業は、大半の学生を落とさざるを得ない。すべての大学生が、自分が行きたい大企業に入社できるわけではないからだ。

そして、企業としては、すべての入社を希望する学生に対して面接をすることはコスト上不可能だ。だから、必然的に、大半の学生は面接にも進めずに落選していくことになる。

大企業ばかり何十社もエントリーした学生は、おとされる度に「自己否定」を繰り返さざるを得ず、次第に自尊心を傷つけられていく。

私が代表を務めるNPO法人POSSEが行った調査では、就職活動を行う中で、学生が「どんな条件でもいいから就職したい」という思考になり、ブラック企業へと誘い込まれている様子が明らかになった。

『POSSE』vol.10「特集 <シューカツ>は、終わらない?」

「すべての学生に平等にチャンスを」、「すべての学生が、大企業を目指せ」というスローガンこそが、学生を多数の「就活自殺」に追い込むほどの苛烈な競争を生み出していったのである。

全人格評価とブラック企業

それだけではない。実は、「学歴フィルター」以前に、日本の就職活動そのものがブラック企業ととても親和的である

企業の採用にとって学歴は、あくまでも「最低ライン」のように機能しているだけで、基準を超える学歴保持者の間では、別の論理で選考される。

これまでの研究によると、日本の企業の「学歴以外」の採用基準は、

・「頭の良さ」

・「コミュニケーション能力」

・「課題創造・達成力」

・「外見・印象」

などであり、およそ「客観的」に評価しがたいものばかりである。

有名な就職対策本でも、面接官が見るポイントは「心からのビジョン」、「頭」、「ハート」、「感性」、「カラダ」、「行動力」が挙げられ、しかも、面接官は発言内容ではなく、「発言している学生」を見ていることが強調されている(杉村太郎『絶対内定』)。

こんなあいまいな基準を突きつけられても、学生は何を努力してよいのかわからない。「コミュニケーション能力」や「印象」といったものは、その学生の人格そのものだからだ。

学歴以外にろくに「客観評価」の仕組みをもっていない日本の就活では、結果として、「全人格的競争」が行われることになるのだ。

日本では、この就職活動を通じて「自分の全人格を企業にささげられるかどうか」が試されてきた。「コミュニケーション能力」や「印象」は、けっきょくは、学生の「姿勢」の評価となる。

「この学生は、どのくらいサービス残業をしそうだろうか」「無茶ぶりをしても、達成力でカバーする人間だろうか」「黙って単身赴任の命令にしたがうだろうか」などということも、この中には潜んでいる。

こうした日本的な「能力評価」は、「生活態度としての能力」とも言われるている。

もちろんこの仕組みは、「過労死(karoshi)」を日本が世界語にしたこととも無縁ではなかったろう。

こうしてみてくると、受験競争や画一性などいろいろな問題ははらみつつも、「学歴」は基礎学力の評価という意味で、まだしも「客観的」であり、過酷な全人格的競争とは一線を画している。

「学歴フィルター」を批判する論者は、学歴をも超えて、すべての若者が「全力で企業に奉仕する姿勢をみせれば、大企業に入れるチャンスはあるはずだ」と煽るつもりなのだろうか。

「自由」の倒錯

一方、欧米ではもっと「客観的」な基準で採用が行われる。「どんな仕事ができるのか」というものだ。学校や国も、公的な職業能力訓練を行い、厳格に資格をつくることによって、客観的な評価を行い、企業の採用を助けている(職務資格による評価)。

こうであれば、「なんでもやります」と人格的に従属しなくとも、「この仕事をできるように努力すればよいのだ」ということが若者にとってはっきりするし、自分のできる仕事に空きがでるまでは、就職できないのも「仕方ない」と割り切れる。

もちろん、欧米でも一部のエリートについては、ある程度は「人格評価」の部分も出てくるだろう。だが、すべての大卒が、しかも全面的に人格評価の対象になるのは日本くらいなのだ。

私は、「学歴フィルター」を批判する人たちが、あたかも自由主義的で、公平を求めているようで、実は「自由」に対して大変な誤解をしているように思う。

「自由に競争させてやれ」と善意から出た批判なのだろうが、客観的な基準がなければ、学生はひたすらペコペコし、こびへつらうしかない状況にも追い込まれかねないのである。

パワハラ上司を思い出してほしい。たいていは、「客観的な基準」にもとづく評価をせずに、「おまえは頭が悪い」とか、「おまえは姿勢がなってない」などと、人格的なことばかりを持ち出して追い込む。

「人格評価」は、評価する側が間違った使い方をすれば、大変な毒薬になる。そして、昨今の「ブラック企業問題」は、まさにそうした企業が日本に巣食っているからこそ、広がってきたのである。

では、どうすべきか

採用の明確な基準を作るべきである。理想を言えば、欧米にならい、「この資格を持っている人を採用する」という条件がはっきりするのがベストだ。学生は何を努力すればよいのかはっきりするので、無駄に自分を卑下したり、過剰に「自己分析」などを行わなくてもよくなる。

また、職務評価は、パワハラ上司に「おい、てめーはまだ何もわかっていねんだよ」などといわれ、「できるようになるまで帰るな!」となってしまう日本の労働環境そのものをも変える力になるだろう。

ただ、一方で、世の中には「学歴フィルター」のみならず、こうした「職務に基づく採用」をも「差別だ」と騒ぐ人たちがいる。

確かに、職務資格は高校生くらいのときにはだいたい「将来の職業」を決めてしまう傾向にあるので、「万能の自由」は保障しないかもしれない。

だが、ただ「自由」だけをもとめれば問題が解決するのだろうか? 私は「人格評価」よりは、「学歴」の方がまだましだと思うし、それに代わる「基準」を積み上げていくことが、「何でもアリ」のパワハラ上司が跋扈する日本を変える道だと思う。

例えば、まずは学歴ではなく、共通の基礎学力テストにしようというのも、一つの手段かもしれない。

本当の「差別への批判」とは、こうした共通の基準を明確にすることであり、その「基準の中」で平等な扱いを求めることなのである。

注:私は学歴による序列がよいなどとは、まったく思っていない。今回は、「学歴フィルター」を安易に批判する論者の問題に焦点をあてている。「学歴批判」が、かえってブラック企業を利するような「人格競争の促進」の要素をはらんでいたからだ。

NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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