【目黒区】道路の真ん中にポツンと残されたようにたたずむ「葦毛塚」、源頼朝と関係があった?!
目黒区では(一社)めぐろ観光まちづくり協会の主催で毎年「目黒観光検定」を実施しています。2024年も1月21日(日)に実施されたばかり。
かくいう私も無事合格し、目黒区内の観光スポットを案内する観光ボランティアとして修業中(のつもり)です。
今回は、ボランティアガイド向けに行われた研修で「葦毛塚」を訪問。この時、うかがったお話をもとに「葦毛塚」の伝説などについてもご紹介したいと思います。
馬にまつわる地名や伝説などが意外に残されている目黒区
目黒といえばやっぱり「目黒競馬場」ですよね。1907年(明治40年)に開設され、1933年(昭和8年)に府中市へ移転するまで、下目黒にありました。
目黒通り「元競馬場」交差点近くには、「トウルヌソル号」のモニュメントが残されています。ちなみに「トウルヌソル」はイギリスで活躍した後、種牡馬として日本へ輸入。
日本ダービー優勝馬の父、ということでモニュメントになっているそうです。
この他にも馬頭観音(中目黒)や馬が目黒の地名になった説、馬を使った地名(駒場、駒沢、下馬、上馬など)が数多く残されています。
今回訪れた「葦毛塚」もまた、馬にまつわる伝説が残されている場所というわけです。
「葦毛塚」に埋葬されているのは、源頼朝公の愛馬だった!?
「葦毛塚」に建てられていた世田谷区教育委員会の碑には「源頼朝公が乗っていた葦毛の馬が死んだので埋葬した」と書かれています。
また、「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも「頼朝が乗っていた芦毛の馬が死んだので埋葬した」という話が記載されているそうです(参照元:目黒区ホームページ)。
ボランティアガイド研修の際、この場所担当されたガイドさんがもう少し詳しく解説してくださったのでご紹介しましょう。
「下馬」とうい地名は、馬を下りて川を渡るよう戒めたことから付いた地名?
源頼朝公が、奥州藤原氏を討ち果たして鎌倉へ帰る途中のこと。頼朝の愛馬である「葦毛」が目黒の辺りまで戻ってくると、いつになく歩みが遅くなったといいます。
大蛇が狂うようだといわれている蛇崩川は折からの長雨で増水。洪水のたびに崩れるといわれる崖に差し掛かった時、葦毛はバランスを崩して川に落ちてしまいました。
やっとの思いで引き上げましたが、すでに息絶えていたそうです。頼朝公の意向で村人たちが塚を作り、「葦毛塚」と書いた墓標を立てたといいます。
その時、源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命したことから「馬引きの沢」という地名になったとか。
その後、この場所一帯を「下馬引沢村」と呼ぶようになり、1925年(大正14年)の町制施行で下馬(しもうま)とあらためられたそうです(参照元:駒繋神社ホームページより)。
「葦毛塚」はもともと祠だったそうですが、1969年(昭和44年)8月24日に下馬史跡保存会の第一事業として、現在の「葦毛塚の碑」が建設されました。
記念碑が比較的新しいのはそういう理由だったのですね。
ちなみに祐天寺駅から徒歩約15分のところにある「駒繋(こまつなぎ)神社」は、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社となっています。
ちなみに「葦毛」の馬とは真っ白以外の白っぽい馬、グレーがかった馬のことを「芦毛(あしげ)=dapple gray horse/Glaucus」と呼ぶとのこと。
競馬で葦毛の名馬といえば「オグリキャップ」ですよね。昭和末期から平成にかけて日本の競馬史上、最も多くのファンに愛された馬として有名。
最後に出馬した有馬記念では奇跡の優勝を果たし、スタンドからはオグリ・コールが巻き起こったことを覚えています。
「葦毛塚」があるのは東急東横線・祐天寺駅から徒歩約10分の住宅街の中。世田谷区との区境、目黒区下馬五丁目です。
葦毛塚を中心に道路が2つに分かれて再び合流するようになっている、ちょっと異空間のような景色が印象的でした。皆さんもぜひ、ふらりと立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
【葦毛塚概要】
葦毛塚(あしげのつか)
住所:東京都目黒区五本木1-18-9