羽柴秀吉は決して徳川家康に屈しなかった。上杉景勝と連携し反転攻勢に出た経緯
今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の戦いが膠着状態になり、和睦が検討された。一連の戦いは一進一退の状況だったが、その後の秀吉はいかにして巻き返しを図ったのか考えてみよう。
天正12年(1584)7月、秀吉方の滝川一益は蟹江城を開城し逃亡した。敗北により、退勢に追い込まれた秀吉であったが、その後の計画も思い通りに行かなかった。7月6日、秀吉は丹羽長秀に書状を送り、7月15日に尾張に出陣する予定だったが、8月に延期することを伝えた(「八代市立博物館未来の森ミュージアム所蔵文書」)。
それは、越前衆、能登衆、越中衆が8月に出陣することに合わせたもので、単独での攻撃をあえて控える作戦だったが、秀吉も病気で養生せざるを得ない不幸が重なった。
そこで秀吉は、長秀の子・長重に自分が行くまでの間に池尻(岐阜県大垣市)にいて、境目の城に人を遣わすことを命じ、その後のことは追々報告する旨を伝えた。秀吉は東氏、梶原氏ら関東の諸将に対して、9月には北国・西国の軍勢を率いて、三河・遠江に攻め込む予定を知らせた(「奈良文書」)。
こうして7月9日、秀吉は東上すべく、大坂から近江国坂本(滋賀県大津市)へと向かったのである(『顕如証人貝塚御座所日記』)。
一方の家康は、7月13日に伊勢国から清須城へと戻った。7月17日には、松平家忠が清須に出仕したが、軍勢の半分は領国の三河国に返した(『家忠日記』)。
その後、両者は静観する状態が続いたが、7月26日には韮山(静岡県伊豆の国市)の北条氏規から徳川家に対して、秀吉が再び尾張に出陣してくるのか問い合わせがあった(「本光寺常盤歴史資料館所蔵文書」)。秀吉の動きを警戒したのだ。
秀吉は尾張出陣に向けて、着々と準備を進めていた。8月12日、秀吉は近江国長浜(滋賀県長浜市)の商人に命じて、鋤と鍬を犬山城に輸送するように命じた(「下郷共済会文書」)。奉行は、石田正澄である。
8月14日、信雄は吉村氏吉に秀吉が出陣することを伝え、城の普請や昼夜の番を怠らないように伝えた。4日後の8月18日、信雄は氏吉に対して、秀吉が大垣に至ったことを報じている(以上、「吉村文書」)。
信雄の情報は正確で、秀吉は8月17日に大垣に到着していた。8月18日付の秀吉書状(上杉景勝宛)によると(「土田藤一氏所蔵文書」)、景勝が佐竹氏・北条氏と対峙していることに触れている。
そして、7月13日に越後と上野の境目で戦いとなり、22日に北条氏が敗退したことを取り上げ、景勝の武辺を称えた。次に、家康が小牧にいるので、8月19日に木曽川を越えて攻め込み、小牧城の周囲に付城を築き、家康が逃げられないように攻囲すると伝えた。
景勝は8月2日に信濃国に出陣していたので、秀吉は家康領国の遠江、三河、駿河の兵を1人も動かさないとする。つまり、秀吉は景勝と家康や北条氏を挟撃するような形をとり、牽制していたのである。
これにより、家康は秀吉との戦いに専念できなくなり、上杉氏の動きに注意を払わねばならなくなった。8月19日、秀吉の先勢は尾張国小口(愛知県大口町)、羽黒(愛知県犬山市)に至った(『家忠日記』)。
秀吉は予想さえしなかった滝川一益の敗北、そして自身の病により、一度は窮地に陥った。しかし、上杉氏と連携することによって、再び逆襲に転じたのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)