武田氏の滅亡後、燃え盛る炎の中で焼死した快川紹喜
前々回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡の模様が描かれていたが、燃え盛る炎の中で恵林寺と運命をともにした快川紹喜の姿がスルーされていたので、取り上げることにしよう。
武田信玄が師事した僧侶として有名なのが、臨済宗の快川紹喜である。紹喜は美濃国守護の名門・土岐氏の流れを汲むといわれ、文亀2年(1502)に誕生したという。妙心寺派に属する禅僧として知られ、のちに恵林寺(山梨県甲州市)の住持を務めた。
紹喜は織田家の菩提寺となった、崇福寺(岐阜市)の住持を務めていた。しかし、紹喜は美濃を支配する斎藤義龍との宗教上の対立(永禄別伝の乱)により、一時は尾張の瑞泉寺(愛知県犬山市)へと逃れたが、のちに問題が解決したので帰国した。
紹喜が甲斐の恵林寺に招かれたのは、永禄7年(1564)のことある。信玄は岐秀元伯という妙心寺派の僧侶に帰依していたが、永禄5年(1562)に亡くなった。紹喜は、その後釜といえよう。
永禄8年(1565)10月、武田義信(信玄の嫡男)は謀反を画策したが、事前に露見し、東光寺(山梨県甲府市)に幽閉を命じられた。その際、紹喜は父子の間を取りなそうとしたが失敗し、3年後に義信は切腹したという。
天正元年(1573)4月に信玄が信濃国駒場(長野県阿智村)で没すると、その遺言により死は3年間伏せられた。武田家の跡を継いだのは、勝頼である。天正4年(1576)4月、信玄の葬儀は恵林寺で行われ、紹喜が導師を務めたのである。
勝頼は信玄の後継者として、よく家を保った。ところが、天正10年(1582)3月、織田氏の猛攻により、武田氏は天目山で滅亡した。ところで、紹喜は信長の要求にもかかわらず、織田家に敵対した武将を匿い、引き渡さなかったという。
当時、寺社は「アジール」という「聖なる領域」とみなされ、俗世界の権力が介入することを拒むことができた、逆に言えば、信長に敵対した武将はそういうことを知っていたので、恵林寺に駆け込んだのだろう。
その後、信長は恵林寺に火を放つよう命じ、紹喜は燃え盛る炎の中で焼死した。死に際したときの紹喜は「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という辞世を残した。出典は、臨済宗の公案を集めた『碧巌録』である。