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大坂冬の陣近し! 徳川家康と豊臣秀頼が決裂した理由は和睦案にあった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家と豊臣家の関係が微妙になり、合戦が間近に迫った状況が描かれていた。両家が決裂した理由は和睦案にあったので、その辺りを確認することにしよう。

 慶長19年(1614)7月26日、家康は方広寺鐘銘事件がこじれたこともあったので、京都の板倉重昌・片桐且元に対し、方広寺の上棟、大仏開眼供養、堂供養のすべてを延期するように要請した(『本光国師日記』)。

 すでに、上棟などの準備も整っていたが、見物人たちは中止になったので、空しく引き上げたという。

 豊臣方は供養が中止になると、鐘銘問題を解決すべく、且元を駿府の家康のもとに遣わした。家康は且元のあとに来訪した大蔵卿(大野治長の母)には面会したが、且元とは会わなかった。且元に対応したのは、家康の側近の本多正純と崇伝の2人だった。これは、且元を動揺させる巧妙な心理作戦だった。

 大仏開眼供養が弁明の余地なく中止になったこともあり、もはや秀頼には抵抗する術がなかった。交渉の場で、且元は今後の措置について口火を切ったという。

 且元は、秀頼から家康・秀忠に反逆の意思がない起請文を提出すると述べた。家康は正純と崇伝からその旨を聞いたが、これを拒否した。家康は最後まで明確な解決策を示さず、答えは且元自身に考えさせるという非情な手段に出た。

 且元は約1ヶ月、駿府に留まったが、名案が浮かばなかった。且元は虚しく駿府をあとにしたが、大坂への帰路は解決策を考えねばならず、苦悩は収まらなかった。

 9月18日、且元は大坂城で①秀頼が大坂を離れ、江戸に参勤すること、②秀頼の母・淀殿が大坂を離れ、人質として江戸に詰めること、③以上のいずれかの条件が承諾できない場合は、秀頼が大坂城を退去し国替えをすること、という3つの条件を提示し解決しようとした。

 しかし、且元が考えた3つの提案は、豊臣家中で猛反対にあった。

 実は、大蔵卿が駿府で家康と面会した際、家康は豊臣家に異心がないとして、淀殿に安心するようお伝え願いたいと述べていた。淀殿らはすっかり安心していたので、豊臣家中では且元の提案が豊臣家への裏切りと考えたのである。

 何も知らなかった且元は、家康の巧妙な術中にはまったのであるが、徳川強硬派の怒りは収まらず、且元を討伐する動きに出た。10月1日、且元は身の危険を感じ、大坂城を一族とともに退去し、居城の摂津茨木城(大阪府茨木市)に立て籠もった。そして、豊臣方の攻撃に備えて防備を固めたのである。

 且元は家康と秀頼の狭間で、複雑な立場にあった。関ヶ原合戦以降、且元は軍功を挙げたので、大和竜田2万8千石の城主となり、摂津、和泉、河内の国奉行を務めた。同時に秀頼の家老も務め、両属していたのである。

 豊臣方が且元を討伐することは、家康の家臣を討つことを意味し、家康が秀頼を討伐するための格好の口実となった。こうして両陣営は決裂し、いよいよ大坂冬の陣の火蓋が切られたのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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