史上初!元阪神タイガースの投手から超難関の公認会計士へ転身【前編】
■史上初のプロ野球選手から公認会計士の難関試験に合格
グラブとボールをマイクとパソコンに持ち替え、その男は大勢の人の前で語っていた。その語り口は軽妙で、聴く人をぐいぐい引き込んでいく。笑いを交えつつ経験から得た教訓を熱く訴え、聴講者を何度も何度も頷かせていた。
その男とは奥村武博さん。元阪神タイガースの投手だ。2013年、超難関といわれる公認会計士の試験にプロ野球出身者としては初めて合格した。
冒頭の場面は奥村さん自らが企画した「受験生のための学習・就活相談イベント」での、公認会計士を目指す受験生に向けての講演だった。
合格するための“秘策”はすべて、奥村さん自身が身をもって経験し、感じたことだ。たとえば「模擬テストは練習試合であり、課題を見つける場である」、「気持ちの波をなくす」、「モチベーションを落とさず高く保つには」などを提言し、本番の試験に向けていかに調整するかを説いていた。
それらはすべて、そのまま野球にも通ずる。「そうなんですよ。野球選手のときにこういうことに気づいて、こういう考え方ができていたら、もうちょっと長くできたかもしれませんね」と奥村さんは笑う。後悔しているわけではない。プロ野球選手の経験があったから、今に繋がったのだ。
その後、マンツーマンでの相談会も行った。奥村さんに相談したいという受験生は後を絶たなかったが、そのひとりひとりの話をじっくりと聞き、アドバイスを送っていた。
奥村さんのその自信に満ち溢れた堂々とした立ち居振る舞いは、マウンドで投げる姿と変わらないくらい輝いていた。
■現役引退後、あまりにも世の中を知らないことを痛感
これまでプロ野球界を引退して公認会計士になった者はいない。合格率が10%前後の超難関な資格だ。なぜ、その道を選んだのか。奥村さんのここまでを振り返ろう。
1997年、岐阜県の土岐商業高校からドラフト6位で阪神タイガースに入団した。同期には同1位に中谷仁捕手、同2位に井川慶投手がいた。
1軍登板はなく、2001年に引退。翌年は打撃投手を務めた。しかしそれも1年で終わり、初めて野球界以外の世間に放り出された。高校を卒業して5年、23歳のときだ。たいていの野球選手が思いつくセカンドキャリアの選択肢は、そう多くない。奥村さんもすぐに頭に浮かんだのは飲食業だった。
友人が経営するバーを手伝いながら、自身も飲食店の経営を目指し調理師の免許を取得するために専門学校に通った。「ボクの気質なんでしょうね。なんかやるとなったら、ちゃんと学校行って…ってなるんです(笑)」。きっちりした性格である。と同時にアルバイトも始めた。自身の素性を隠して、ホテルの調理場に身を置いた。
仕事の内容は一日中、延々としいたけの軸やメロンの種を取り続けることだった。「二つに切ったメロンを渡されて手袋をした手で種を取るんですけど、その手の動きがカーブを投げるときと同じやなとか、美味しいところを残すようにギリギリのところを取らないといけない、その絶妙なさじ加減が外角のアウトロー1個分やなとか、そんなこと考えながらやっていました」。笑いを交えながら話してくれる。
関西のホテルだったが、悲しいかな、誰にも元阪神タイガースの選手だと気づかれなかった。さらに大学を卒業したばかりの同年代のフリーターが、社会でどういう扱いをされるのかを目の当たりにするなどした。「あぁ、自分は世の中をまったく知らないな」と痛感した。
金銭面でも、「これだけ必死にやっても時給900円ほど。プロ野球での世界ではケガして練習しかできなくてもかなりの金額の報酬をもらえていた」と、その“格差”も改めて身に染みた。
しかし将来について考えても、浮かぶのは飲食業しかなかった。世の中にどんな職業があるかも知らなかったからだ。
そんな折、友人からあるものを渡された。それは7cmほどもある分厚い本で、中には様々な仕事、様々な資格が載っていた。ボイラー技士やヒヨコのオスメス鑑定士など、今まで知らなかった仕事がこんなにあるのかと驚き、視野が広がった。
その本をパラパラとめくっていたとき、目に留まったのが「公認会計士」だった。「なんか字面がカッコイイと思ったし、面白そうかなと。そこで初めてその仕事を知ったんです」。思い起こせば商業高校の出身で簿記2級を取得していた。ネットで「公認会計士」という仕事を調べ、目指すべきはこれだと思った。2004年のことだ。
■公認会計士とは
ところで「公認会計士」とはどんな仕事なのだろう。奥村さんの説明によると、「“企業の経済の番人”とも言われるんですが、監査という公認会計士の独占業務である決算書のチェックをする仕事とか、税務業務という税理士と同じ仕事もできますし、行政書士の登録もできます。ビジネスの知識を活かして企業のコンサルティングなど、幅広く活躍できるんです」とのことだ。
奥村さんが公認会計士を目指そうと決意したちょうどその頃、受験制度の改革が行われることが発表された。それまでは大学での単位など必須要件が色々あったのだが、2006年からそれらが撤廃され何人も受験できるようになるとのことだった。
「今から2年勉強したら、時期的にちょうどいい。まさしくオレのための制度変更や」。プラス思考でこの道だと腹を決め、予備校に通い始めた。
予備校に通いながらも生活費は稼がねばならない。勉強時間を重視するため、短時間で効率よく稼ごうと思えば宅配便の配達や深夜のネットカフェ勤務などになった。しかし肉体労働や深夜勤務の影響で、思うように勉強がはかどらない。
何より、「勉強すること」を忘れていた。勉強や読書などはクセのものだ。何年も無縁だったことを思い出すのにも時間を要した。なんとか「勉強すること」を思い起こし、クセづけながら試験を受けた。
なかなか合格はしなかったが、自分が思っていたよりいい点数が取れた科目もあった。「頑張ればいける」。そんな手応えがあったから、勉強を続けることができた。
そうしているうち、実際にやりたい仕事とアルバイトの内容があまりに乖離していることに思い至り、もっとより近い仕事を探すことにした。そのために日商簿記検定1級の試験を受け、見事に合格した。「余裕で受かったんです。試験後に自分で合格が確信できるくらいに余裕でした」。これがあれば希望する仕事に就けるだろうと思った。
しかし、その日商簿記1級と自信を携えて30社ほどの入社試験を受けたが、ことごとく落ちた。失意の中で資格専門学校が主催する「公認会計士を目指す人のための就職相談会」に足を運んだ。
するとそのプロジェクトの責任者にタイガースファンだという人がいて、話が盛り上がった。そしてそのままトントン拍子に話が進み、その人の縁でその資格専門学校の東京本社に引っ張ってもらった。「キャリアサポート」という部署で、働きながら資格取得を目指せることとなった。「野球選手をやってたからかな、場所が変わることにまったく抵抗なくて。迷いなく東京に行きました」。2007年12月に入社した。
■新しい仕事を覚えながら勉強を続け、とうとう・・・
仕事の内容はパンフレットやWEBサイトを作成するなど、広報のようなものだった。本格的にパソコンを使って仕事をするのは初めてだったが、持ち前の好奇心でぐんぐん吸収し、エクセルやパワーポイント、イラストレーターまで使えるようになった。「高校が商業やったから、多少なりともベースはあったからかな。ブラインドタッチのワープロ検定とかあったし、なにげに手が覚えていましたね」と話す。
さらに「分析するのとか好きやったから」と、自ら受験生の傾向を分析集計するなど、自発的に仕事を生み出していった。
2011年まで本社に勤務していたが、転機が訪れたのが2012年だった。件の資格専門学校の本社から日吉校に異動となり、業務内容も受験生の受付に変わった。
自身と同じ公認会計士を目指す受験生が身近にいる環境で、同じ受験仲間でありながら相談や質問を受ける立場となった。ときに進路相談、人生相談も受けながら、実にのべ1000人を超える受験者たちに親身に対応した。
「質問に対して間違ったことは答えられないから、こっちも必死で調べたり勉強したりする。それがよかった」という。また「人に説明しようとすると噛み砕かないといけないから、ちゃんと腑に落とさないといけない」と、きちんと勉強し、付け焼刃でなくしっかりと理解を深める。そうしているうちに自分の実力が激的に伸びた。
そして2013年11月、晴れて公認会計士試験に合格した。苦節9年の努力が実ったのだった。(続く)