樋口尚文の千夜千本 第204夜『月』(石井裕也監督)
容赦なき問いかけにまみれて
一世紀前の理不尽極まりない虐殺事件の謎に迫った『福田村事件』同様、本作はまだ記憶に生々しい2016年の障がい者殺傷事件をモチーフに、「なぜ虐殺のスイッチが入ったのか」という核心を虚構の視座から明らかにしょうとする。『福田村事件』については本レビューの第198夜でも詳述したが、極めて具体的に「スイッチが入った瞬間」までの過程を再現してみせた。もっともそのさまざまな偏見、思いこみや運の悪さなどが幾重にも絡んだ着火までの経緯はわかったのが、もっとラディカルな部分での「なぜごく普通の人間が虐殺を行うことができるのか」ということへの答えは保留されていた。むしろそのことを観る者に問いかける映画であったと言うべきだろう。
だが、その問いかけのどぎつさにおいては本作『月』が勝っているかもしれない。磯村勇斗扮するさとくんは結果的にはナチスの戦時下における障がい者大量殺戮と同じことを断行する。ナチスがガス室送りにしたのはユダヤ人だけでなく、さとくんが指標とするように「意思疎通の能力」を欠く自国民が大勢抹殺された。書けなくなった作家の宮沢りえは、その磯村勇斗の発想を優生思想と糾弾するが、逆にそれは生ぬるいと批判される。宮沢りえの出世作である東日本大震災をモチーフにした小説も、あの現地の「臭さ」がどこにも描かれず、実態から目を背けているではないかと。
さらに磯村勇斗は、そんな宮沢を「無傷で手ぶらで善の側に立つなんてずるい」と非難し、「この障がい者施設の入所者を見て気持ち悪い、臭いと思わないのか」と詰め寄る。ここでは観客のわれわれも詰問されているわけだが、そんな宮沢や観客を試すべく見せられるある入所者の凄まじいありさまは数日間記憶から消せないレベルの描き込みで、確かに「これでも人間と呼べるのか」とうなだれざるを得ない惨状である。そのゆえに、磯村の決起宣言を毅然と否定したそばから、それは偽善、欺瞞ではないのかと自らを揺さぶるもうひとりの自分が登場する。事ほどさように、本作の問いかけは容赦ない。
この重く息詰まる展開に巻き込まれながらも、一方でごく静かに幸福とは何かを手探りする宮沢りえとオダギリジョーの夫婦がいる。生命の尊厳についてはもとより、自分たちのささやかな幸福についても確信を持てなくなっている二人が思索の末にいかなる生き方の決定をするのか。そこはあえてふれないが、息詰まるような問いかけの映画のなかでこの二人のシークエンスだけが救いかと言うとそうでもなくて、素朴な愛情と哀しい生命の記憶を共有している二人には常に不安な心もとない空気がつきまとう。かくも観客を許してくれない困難で稀有な題材にメジャーな主演俳優たちが真摯に向き合っているところに瞠目させられるが、なんとも言えない屈折と悪意を抱えた作家志望の施設職員に扮した二階堂ふみが出色だった。