織田信雄は蚊帳の外。羽柴秀吉が天下人に躍り出た巧妙な手口を探る
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴軍と織田・徳川連合軍が戦ったが、羽柴秀吉は類稀なるリーダーシップを発揮した。清須会議後、秀吉がいかにして天下人に躍り出たのか考えることにしよう。
天正11年(1583)7月下旬頃、最後まで羽柴秀吉に抵抗していた滝川一益は、長島城(三重県桑名市)を退いた(「蜂須賀家文書」)。
一益は命こそ助かったが、秀吉に屈し従属することになった。『十六・七世紀イエズス会日本報告』によると、退城した一益は剃髪し、1千5百人の家来とともに秀吉に従ったとある。
同年8月1日、秀吉は諸将に知行を宛がった。知行地の多くは、近江、山城、河内などの畿内およびその周辺である。織田信雄は伊賀、伊勢、尾張を支配することになり、居城を長島城に定めた。
秀吉は信雄に対して「屋形として崇仰(崇め敬うこと)する」と述べたそうだが、どこまでが真意なのか疑わしい。すでに秀吉は畿内を掌握し、諸大名を指示系統に置いていた感があり、もはや信雄はお飾りに過ぎなかった。
その間も秀吉は、諸大名に書状を送った。同年6月、上杉景勝は秀吉に太刀や馬を贈り、一連の戦勝を祝した(「上杉家文書」)。これに対して秀吉は誓紙を差し入れて、今後も友好的な関係を築くことを確認した(「大石文書」)。
その翌月、景勝は秀吉に養子・義真(畠山義春の子)を人質として差し出した。景勝は織田信長の亡きあと、秀吉と和睦を結んだのであるが、信雄は蚊帳の外だった。
清須会議後における、秀吉のリーダーシップぶりは特筆される。織田家の「宿老体制」を担ったのは、秀吉のほか柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興だったが、勝家らは清須会議における知行配分では利を得られなかった。
やはり、秀吉がもっとも有利な条件のもと、解決が図られたと考えざるを得ない。
清須会議では「宿老体制」のもと、織田家を支えると確認されたが、実際に4人が連署して発給した文書は少ない。当時の天下は、将軍の支配が及ぶ畿内だった。
そして、京都の支配で主導権を握っていたのは、山城国を知行した秀吉だった。天下を掌握するには、京都が重要な意味を持ったのである。
秀吉は勝家と織田信孝を排除後、信雄を補佐する立場にあったが、実質的に京都支配などで主導権を握っていた。朝廷が秀吉に使者を送り、挨拶をしたのは、京都における治安維持を期待してのことだろう。
つまり、秀吉が信雄を補佐するというのは形式の話であって、その威勢は信雄を凌駕していた。
秀吉は山城国を中心にして天下を掌握することにより、織田家のみならず諸大名よりも優位になった。信孝や勝家が秀吉に戦いを挑んだのは、天下を秀吉に独占させないためだろう。
同様な危機感は、信雄も共有していたはずだ。信雄は三法師の名代となり、実質的に織田家の家督の地位にあったが、秀吉の脅威をひしひしと感じていたに違いない。その不満は、翌年の小牧・長久手の戦いにつながったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)