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【戦国こぼれ話】豊臣秀頼の妻・千姫。その数奇な運命について考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
姫路城西の丸化粧櫓と千姫。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 姫路市内の飲食店では、美女だったという千姫にちなんで「海鮮10種の姫路千姫丼」を売り出して評判だという。ところで、千姫は豊臣秀頼の妻となったが、のちに本多忠刻(ただとき)と再婚するなど数奇な運命をたどった。その経緯を確認することにしよう。

■千姫と豊臣秀頼

 慶長2年(1597)、千姫は京都の伏見城で誕生した。父は徳川秀忠、母は崇源院(お江)である。しかし、翌年には早くも千姫の運命は定まっていた。

 翌慶長3年(1598)8月、病床の豊臣秀吉は子の秀頼の行く末を案じ、何とか徳川家との関係を深めたいと考えた。そこで、千姫を秀頼と結婚させるため、早くも婚約を結んだのである。それが、秀吉の最期の言葉の1つだった。この直後、秀吉は無念の思いを抱きながら、この世を去った。

 千姫と秀頼の2人が正式に結ばれたのは、5年後の慶長8年(1603)のことである。ちょうど徳川家康が征夷大将軍に就任した年だった。

 秀頼が11才、千姫が7才と幼かったため、この時点では婚約をしておいて、その後に正式な夫婦になったのだろう。千姫は、伏見城から大久保忠隣(ただちか)に伴われ、秀頼のいる大坂城に入った。

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で東軍の徳川氏が西軍の豊臣家に圧勝したものの、家康はしばらく豊臣家との良好な関係を維持することに腐心した。しかし、時間の経過とともに、家康は徐々に豊臣家に圧迫を加えるようになり、両者の溝は深まっていった。

■豊臣家の滅亡と千姫

 慶長19年(1614)、ついに両者の関係は決裂し、大坂冬の陣が始まった。老獪な家康の手腕によって秀頼は追い詰められ、翌年に大坂城は落城。秀頼は母・淀殿とともに自害した。これにより、豊臣家は滅亡したのである。

 千姫は豊臣家の助命嘆願の効果もあって、1人だけ無事に大坂城を脱出した。千姫は脱出した時、坂崎直盛によって助けられた。家康は孫娘・千姫の無事を大いに喜んだが、秀忠は秀頼と運命をともにすべきであったと対面を拒否したという。お互いに心中は複雑であったに違いない。

 元和2年(1616)、夫の秀頼を失った千姫は本多忠刻と再婚した。忠刻は、姫路城主・本多忠政の子だった。しかし、婚礼の際には、意外なハプニングが起こった。突如、輿入れの行列に坂崎直盛があらわれ、千姫を奪い去ろうとしたのである。

 直盛が暴挙を企んだのは、家康が千姫を助けた者に姫を与える約束を履行しなかったからだ。結局、直盛は取り押さえられ、改易処分となった。ただ、一連の流れについては、未だに謎が多いとされている。

■その後の千姫

 千姫は忠刻との間に一男一女をもうけたが、男子は夭折し、娘の勝子のみが成長して池田光政に嫁いだ。夫の忠刻は寛永3年(1626)に没し、千姫は落飾して天樹院と名乗った。そして、江戸竹橋に居住し、1万石を支給された。

 この頃、幕府では家光が3代将軍になっており、千姫は家光のもとで厚遇された。やがて、千姫は幕閣や大奥にも隠然たる力を保持したという。そして、寛文6年(1666)に波乱の生涯を閉じた。享年70。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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