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三好長慶の甥で家督を継いだ義継は、なぜ織田信長に殺されたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 三好長慶は畿内を制覇したものの、家督を継いだ甥の義継は織田信長に滅ぼされた。なぜ、義継は信長と戦うことになり、滅亡に追い込まれたのか?その辺りを詳しく考えてみよう。

 永禄元年(1558)末頃の時点で、長慶は山城、丹波、摂津、和泉、淡路、讃岐、阿波などを支配する畿内の最高権力者となった。その後、長慶は芥川城、飯盛城に本拠を置き、畿内支配を展開した。

 ところが、永禄4年(1561)以降、弟の十河一存、義賢を相次いで失い、永禄6年(1563)には後継者たる子の義興が急死した。相次ぐ近親者の死により、長慶は政治への意欲をなくし、永禄7年(1564)に亡くなったのである。

 長慶の死の前年、三好家の後継者に据えられたのが甥の義継である。義興の急死に伴う措置だった。一存の子として誕生した義継は、生年不詳。長慶の死と同時に、正式に当主になり、畿内支配を行うことになった。

 義継を支えたのは、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀だった。しかし、三好三人衆と松永久秀が対立すると、義継は三好三人衆に拉致され、飯盛城から高屋城に移された。

 以降、義継は三好三人衆のもとにあり、失意の日々を過ごしたが、それを良しとせず、永禄10年(1567)に久秀のもとに走った。義継を擁することにより、久秀は優位になったが、翌年に信長が上洛したので状況が一変した。

 久秀が信長に従ったので、義継も同意したものの、大半の領土を信長に召し上げられ、わずか河内半国しか手元に残らなかった。その後、義継は将軍・足利義昭の妹を妻とし、強固な関係を結ぶことになった。

 天正元年(1573)、義昭は信長に叛旗を翻したが、あえなく敗北。義昭は義継の居城の若江城に逃げ込んだ。信長は義継が義昭を匿ったことに激怒し、配下の佐久間信盛に若江城の攻撃を命じた。

 信盛の軍勢が攻めてくると、義継の家臣である多羅尾、野間、池田の3人が裏切り、敵兵を若江城内に引き入れた。それでもなお、義継は天守で抵抗したが、最期は妻や子を殺し、自らは切腹して果てたのである。

 最終的に義継は義昭を受け入れるという判断ミスを犯したが、長らく三好三人衆や久秀に翻弄されたので、独自路線を貫こうとしたのだろう。それが、信長による討伐につながったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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