伊勢の神戸具盛は、なぜ織田信長によって粛清されたのだろうか?
現代社会において、政争に敗れて粛清されることは決して珍しくない。過去においても伊勢の神戸具盛も織田信長によって粛清されたが、その理由について考えてみよう。
神戸氏は北畠氏に従っており、関氏や近江の六角氏と対立関係にあった。具盛は神戸家の家督を継承すると、関氏や六角氏と友好的な関係を持ち、勢力の回復を行った。しかし、永禄10年(1567)以降、織田信長が伊勢に侵攻したのである。
信長の侵攻後、具盛はよく抵抗したが、翌年に和睦を結ぶことになった。そのときの条件は、具盛が信孝(信長の三男)を養子として迎えることだった。
当時、11歳だった信孝は傅役として、尾張から家臣を同行させていた。具盛だけでなく、神戸家の家臣が不満を持ったことは容易に想像できよう。『勢州軍記』には神戸氏が信孝を疎略に扱ったと書かれているが、あまり歓迎しなかったのだろう。
元亀2年(1571)、信長は具盛の態度を見かね、ついに粛清を決めた。具盛が近江日野に出掛けた時を見計らって捕らえると、そのまま蒲生氏(具盛の妻は蒲生賢秀の娘)に身柄を預けた。そして、信孝に神戸家の家督を継承させたのである。
信孝が神戸家の家督を継ぐと、ただちに代替わりの検地が行われた。その結果、神戸家の家臣の知行は大幅に減らされ、約120人が牢人生活を余儀なくされた。その代わり、尾張からやって来た信孝の家臣に対し、知行が与えられたのである。
それだけではなかった。信長は不満を持つ家臣の粛清にも乗り出した。高岡城主の山路弾正忠は、信長が伊勢を侵攻したときに激しく抵抗し、なかなか屈しなかった武将である。山路弾正忠は神戸城に招かれると、その場で殺害されたのである。
その後の具盛の動向は、ほとんどわからなくなる。一説によると、具盛は織田信包に庇護を求め、安濃津で没したといわれている。亡くなったのは、慶長5年(1600)と伝わっている。