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桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのは、天候の急変が一因だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
桶狭間古戦場。(写真:イメージマート)

 近年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのは、天候の急変も一因だったという説が提起されたので、紹介することにしよう。

 永禄3年(1560)5月19日、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元に勝利した。従来は信長が迂回して、義元の本陣を奇襲したといわれていたが、今は『信長公記』の記述に基づき、信長が正面から義元に戦いを挑んだのが正しいとされている。

 ところで、信長が義元に勝った理由については、近年になって服部英雄氏により新説が提起されたので、以下、紹介することにしよう。

 5月19日、義元は大高城方面に兵を進め、信長方の丸根・鷲津の両城を落としたことを知った。昼頃、勝利に気を良くした義元は、桶狭間山で休み昼食を摂った。当日は朝から暑かったので、兵は甲冑を脱いでいたと考えられている。

 しかし、天候が急変し、突如として大雨が降った。やがて、大雨は降雹をともなった氷雨に変わり、急速に気温が低くなった。火縄銃は火薬が湿ったので、使用が不可能になり、野営していた兵は低体温症になり、運動能力が低下したという。

 一方の信長方の軍勢は、屋根がある丹下などの砦にいたので、氷雨の影響を受けなかった。その後、空が晴れてきたので、信長が戦闘開始を合図すると、兵は義元の本陣に正面から攻撃したのである。

 今川勢は鉄砲で応戦しようとしたが、先述のとおり、火薬が湿っていたので使えなかった。今川勢は総崩れとなり、義元も逃げ出した。今川の兵は低体温で動きが鈍くなり、十分に戦うことができず、ついに義元も討たれたということになろう。

 これまでも諸史料により、合戦当日に雨が降っていたことは明らかだった。しかし、それは単なる雨ではなく、降雹をともなった氷雨であり、それが今川勢を窮地に陥れたということになろう。

主要参考文献

服部英雄「桶狭間合戦考」(『名古屋城調査研究センター研究紀要』2号、2021年)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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