気分は天下人。毛利氏も震え上がった羽柴秀吉の激しい恫喝の言葉の数々
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴軍と織田・徳川連合軍が抗戦したが、それ以前に羽柴秀吉は毛利氏に服従を迫っていた。秀吉は激しい恫喝により成し遂げたので、確認することにしよう。
天正11年(1583)になると、羽柴秀吉は織田信孝(信雄の弟)を死に追いやると、信雄をも従わせて、実質的な天下人になっていた。
その後の重要な課題の一つは、毛利氏との中国国分だった。本能寺の変の勃発直後、秀吉は中国国分をいったん棚上げして一時停戦し、備中高松城(岡山市北区)から光秀の討伐に向かっていた。
領土画定は毛利氏、秀吉にとっても重要な課題であり、備中、美作などを含め、どこで国境を区切るのかで交渉を進めていた。毛利方の窓口は安国寺恵瓊、林就連、秀吉方の窓口は黒田孝高と蜂須賀正勝だった。
秀吉は5ヵ国(備中、美作、備後、伯耆、出雲)の割譲を提示したが、やがて備後と出雲は対象から外れ、焦点は備中、美作、伯耆の3ヵ国に絞られた。
しかし、3ヵ国に減ったとはいえ、交渉は難航を極めた。というのも、備中、美作は宇喜多秀家の領土でもあり、そう簡単には譲れなかったのである。
長い交渉の結果、恵瓊と就連は毛利氏の首脳に対して、①備中外郡(高梁川より東の地域)を秀吉に譲ること、②美作国を秀吉(実際は宇喜多氏)に譲ること、③虎倉城(岡山市北区)、岩屋城(岡山県津山市)からの撤退すること、④常山城(同倉敷市)、松山城(同高梁市)、高田城(同真庭市)から一つを選択すること、という交渉結果を書状に認めて送った。
この秀吉の提案に対しては、毛利氏の首脳が強い難色を示したが、毛利氏首脳を強い言葉で説得したのが恵瓊であった。恵瓊は、秀吉と毛利氏の力の差が歴然としていることを説き、提案に応じるように求めたのである。
しかし、中国国分はすぐに完了せず、もう少し時間を要した。天正11年(1583)5月19日、秀吉は小早川隆景に書状を送った(「毛利家文書」)。その内容は、非常に凄まじいものだった。
秀吉は「忠節を尽くした者には国郡を安堵する」「反抗する者は成敗すべきだが、人を斬るのは好まないので助けてやり、先々に国を与える」と言ったことを書き、暗に毛利氏を恫喝した。つまり、秀吉に従えば、許したうえに所領安堵などの恩恵があるが、そうでなければ成敗するという。
そのうえで中国国分の話題を出し、「秀吉に腹を立てさせないことが肝心だ」などと述べている。さらに、東国は北条氏政、北国は上杉景勝まで、秀吉の思いのままなので、輝元も秀吉に従うならば日本は無事に治まり、それは頼朝以来のことであると言う。
つまり、秀吉は自らの威勢や他の大名がすでに屈服したことを背景にして、毛利氏に従うように決断を迫ったのだ。文面は穏やかではなく、もはや秀吉の態度は天下人そのものである。
結論を先取りすると、2年後の2月、ようやく毛利氏との領土が画定した。毛利氏は、備前・児島(岡山県倉敷市など)と美作・高田(同真庭市)を諦めたが、八橋城(鳥取県琴浦町)と松山城(岡山県高梁市)は領有を認められ、備中も高梁川から西を手に入れた。
毛利氏は不本意だったかもしれないが、恵瓊の尽力によって秀吉との全面対決を避け、一定の成果を得たのである。同年、秀吉は毛利氏との国分を終えただけでなく、関白に就任した。こうして秀吉は、真の意味で天下人になったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)