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「桜木花道のモデル」デニス・ロドマンの言葉

林壮一ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
1992年から7年連続でリバウンド王を獲得したロドマン(写真:ロイター/アフロ)

 5月2日にデニス・ロドマンの記事を書いてから、改めて彼の言葉が胸に染み入る。https://news.yahoo.co.jp/byline/soichihayashisr/20200502-00176221/

 『SLAM DUNK』(スラムダンク)桜木花道の強烈なキャラクターは、ロドマンがモデルであるそうだが、著者、井上雄彦氏がロドマンの魅力を十二分に感じたからこそ、レッドヘアーの主人公が作品内で躍動したに違いない。

Photo:Tsunaki Tabayashi
Photo:Tsunaki Tabayashi

  2010年8月19日に有明コロシアムで催された「AND1 presents STREET2 ELITE」の記者会見中、私が聞き出したのは、

 「(自分がNBA選手として成功できた最大の要因は)気持ちだな。成功してやるという強い気持ち。いつもそれが自分の支えになっていた。身体が小さく、芽が出なかった時期も決して諦めず、自分を信じて前進したことが良かった」

 という一言に過ぎない。

 再度、足跡を辿り、ロドマン語録を探った。彼の自伝ともいうべき1996年発行の『BAD AS I WANNA BE』から、いくつかをご紹介しよう。

 ロドマンは1995年から1998年までシカゴ・ブルズでプレーし、マイケル・ジョーダンと共に掴んだ3連覇を含め、NBAで5度チャンピオンの座に就いた。その後、ロスアンジェルス・レイカース、ダラス・マーベリックスと渡り歩き、2000年のシーズンを最後にNBAから姿を消す。

 が、2003年にNBA下部組織のDリーグ(現Gリーグ)と契約し、その後はメキシコリーグ、米国独立リーグ、フィンランド、英国などの選手として40代半ばまでコートに立った。悪童キャラで売っていたが、確かなバスケットボール愛を感じる。

Photo:Tsunaki Tabayashi
Photo:Tsunaki Tabayashi

 テキサス州ダラスのゲットーで貧困に喘ぎながら育ったロドマンは、「NBA選手は、バスケットボールと出会っていなかったら、死んでいたか、刑務所に入っていたような男が多い。俺もそうさ。バスケットボールが、いつも周囲にあるトラブルから逃がしてくれた」と振り返っている。

 ロドマン家の住居は、ダラス市が貧民救済処置として築いた”プロジェクト”と呼ばれる公営住宅だった。1つ下の妹と2つ年下の妹は、それぞれバスケットボール特待生として、大学からお呼びがかかった。だが、ロドマンはダラス・フォートワース空港の守衛として、時給6.5ドルで働かねばならなかった。もっとも、同勤務先で50個の時計を盗み、クビになっている。

 「プロジェクトで育った黒人たちには、生きるうえでのチャンスが無い。スポーツで身を立てるか、ドラッグの売人になるか選択肢は2つだけだ。

 一方で、白人には諸々のチャンスがある。人種問題を鑑みた際、何度も自分が白人だったらな…なんて思ったもんさ」

 21歳にしてバスケットボールの技量を武器にコミュニティーカレッジに入学することで、ロドマンは道を拓く。2年制のコミュニティーカレッジで活躍し、サウスイースタン・オクラホマ大に編入。この大学のキャンパス内で彼は「ヘイ黒人野郎、ここを出ていけ!」「アフリカに帰りな!!」等と叫ばれた。日常的に「Nigger!」なる差別用語も浴びせられている。

 「大学は白人社会だった。居心地が悪かったね。俺が自分の過去を忘れることは決して無い。NBA選手となって己を見詰めた結果、とにかくリバウンドだった。バスケットボールコートに立ったら、誰もが得点したいと感じるだろう?リバウンドをしたいと考えるヤツなんていないよ。

 でも、俺の武器はリバウンドだったんだ。得点なんて望まなかった。生き抜く為のことをやろうと、何度何度も自分のプレーの映像を見て学習した。リバウンドで、何者かになろうとしたんだ」

 その結果、ロドマンは1992年から7年連続でリバウンド王を獲得する。

 「全てのリバウンドが、個人的な挑戦だった。NBAで生き残る為には勝たなきゃならなかった。もし、このボールを失ったら、また地獄のようなダラスのゲットーに戻るしかない、という危機感を覚えていた。俺は自身をコート上のライオンだと感じていたよ」

Photo:Tsunaki Tabayashi
Photo:Tsunaki Tabayashi

 最初の結婚生活を僅か82日で破綻させる破天荒ぶりも見せたが、メンタルの強さがロドマンを唯一無二のリバウンダーにしたことは間違いない。

 このライオンは語った。

 「アスリートでいる時間というのは、人生において仮の姿だ。俺の人生は与えられたものじゃない。カネも、人々から注目されることも、ファンが言う『あなたを愛している』なんていう言葉も絶対に信じない。NBA選手は、ユニフォームを着て2時間で7マイル走る売春婦さ」

 そんな毒を吐きながらも、ホームアリーナの近くで飢えを凌ぐホームレスを見掛けると、ゲームのチケットをプレゼントする包容力も見せた。そして、NBA全体に警笛を鳴らした。

 「選手にとって、最も大事なものはゲームだ。ファンをいかに気持ちよくさせて、幸せを感じてもらえるか。我々の勝利は2番目。最近は年棒がいくらかとか、名誉がどうだとか、女がどうだとか、誰がいい車に乗っているとか、いい服を着ているかとか、そんなことばかりに気を取られている。選手はもっともっとゲームを大事にすべきだね」

 <豪放磊落かつ気分屋の問題児>と見られていたが、ロドマンはひた向きにボールを追い続けた。

 「俺がドラッグにハマっているなんて無責任な発言をする野郎もいたが、そんな物に手を出したことは一度も無い。必要無かったからな。そういう事を言うヤツは、テレビの前でお気楽にビールを飲んでいるようなタイプさ」

Photo:Tsunaki Tabayashi
Photo:Tsunaki Tabayashi

 有明コロシアムでプレーしてから、およそ1年後の2011年8月、ロドマンは殿堂入りを果たし、感涙に咽ぶ。自らを支えた人々に感謝を伝えながら、

 「自分はカネの為にプレーしたんじゃない。有名になりたくてプレーしたんじゃない」という言葉を発した。そして、12分に及んだスピーチの終盤、「俺は良い子供じゃなかった」と言いながら、3つの仕事を掛け持ちしながら、自分と2人の妹を育てた母へ礼を述べた。

 ロドマンの母は、NBA選手として成功した息子から贈られたメルセデスを運転中、何度も警官に職務質問されている。

 「ヤツらは黒人女性が高級車のハンドルを握っているのが信じられないのさ。何か罪を犯しただろうって疑い、母の車を止めたんだ」

 ロドマンはリバウンド王でありながら、Bad Boyとしてキャリアを重ねた。しかし、彼がスピーチ中に母親に送った眼差しはとても柔らかく、人間味に溢れていた。

 ロドマンはここ数年、北朝鮮訪問を繰り返しているが、日本のファンにも元気な姿を見せてもらいたい。そして、含蓄のある言葉を聞かせてほしいものである。

ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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