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牢人時代の明智光秀は、長崎称念寺の門前に10年間住んでいたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 6月は本能寺の変が勃発し、織田信長が明智光秀に討たれた月である。ところで、光秀は越前との関係が取り沙汰されており、今も関連した行事が行われている。こちら

 光秀はかつて長崎称念寺(福井県坂井市)の門前に住んでいたといわれているので、その辺りを確認しよう。

 光秀が長崎称念寺に住んでいたことを示す史料としては、『遊行三十一組 京畿御修行記』天正8年(1580)1月24日条に記録がある(橘俊道「遊行三十一祖 京畿御修行記」(『大谷学報』52―1、1972年)。

 この史料は、遊行第31代の同念が東海から京都・大和を遊行(修行僧が説法教化と自己修行を目的とし、諸国を遍歴し修行すること)したとき、随行者が記録した道中記で、信頼性が高い史料であると評価されている。

 史料には「惟任方(明智光秀)はもと明智十兵衛尉といい、濃州土岐一家の牢人だったが、越前の朝倉義景を頼みとされ、長崎称念寺の門前に10年間住んでいた」と書かれている(現代語訳)。

 この史料を読む限り、光秀が美濃の土岐氏の一族で牢人だったこと、朝倉義景を頼って越前を訪れ、長崎称念寺の門前に10年間住んでいたことが判明する。長崎称念寺は福井県坂井市に所在する時宗の寺院で、数多くの武将が帰依したという。

 実のところ、光秀と長崎称念寺との伝承は、ほかにもいくつか残っている。『明智軍記』は、光秀が美濃から越前を訪れた際、妻子を長崎称念寺の所縁の僧侶に預けたと記している。所縁というほどだから、光秀は以前から長崎称念寺と何らかのかかわりがあったのだろうか。

 その間、光秀は諸国をめぐり、政治情勢を分析したというのである。廻った国は50余国に及んだというが、ほかに裏付ける史料はなく疑わしい話である。

 光秀は長崎称念寺の近くで寺子屋を開き、糊口を凌いでいたとの伝承すらある。ほかにも挙げるとキリがないが、光秀と長崎称念寺の逸話を載せる地誌類は多い。ただ、いずれも裏付けとなる史料がない。越前における光秀関係の史跡もあるが、同様である。

 称念寺の門前に光秀が住んでいたのは史実と認めてよいが、それは朝倉氏の家臣としてではなかったと考えられる。また、多くの逸話や伝承は、信頼できる史料で裏付けられないので疑わしい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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