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徳川家康を遠江で手引きした「井伊谷三人衆」とは、いったい何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、武田信玄が駿河に攻め込んだ際、徳川家康も呼応して遠江に侵攻した。その際、家康を手引きしたのが「井伊谷三人衆」であるが、いったい何者だったのか考えることにしよう。

 永禄11年(1568)11月に武田信玄が駿河に侵攻すると、徳川家康は信玄の動きに呼応するがごとく、遠江への侵攻を開始した。このとき家康の軍勢を手引きしたのが、「井伊谷三人衆」と呼ばれる菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時である。

 井伊谷三人衆とは、文字どおり井伊谷(静岡県浜松市)に本拠を置いたとされている。以下、井伊谷三人衆について述べておこう。

 菅沼定盈は野田城(愛知県新城市)に本拠を置き家康に仕えていた。一方の忠久は定盈と同族であるが、都田(浜松市北区)に本拠を置いていた。忠久の父・元景は、井伊直親に仕えていたという。2人とも井伊氏の配下にあった。

 近藤康用は、祖父・満用が松平清康に仕えていたという。満用が清康に従って三河宇利城(愛知県新城市)を攻撃した際、勝利の恩賞としてそのまま宇利城を与えられた。

 その後、康用は今川氏の配下に加わったが、さらに家康に主人を変えたのだろう。康用は先述した遠江での一連の戦いで重傷を負い、晩年は井伊谷で過ごしたと伝わる。

 鈴木重時と父・重勝は、柿本城(愛知県新城市)に本拠を置く三河国足助氏の流れを汲む一族である。当初、2人は今川氏の配下にあったが、のちに離れて家康の配下に加わった。その後、重時は堀江城を攻撃した際、討ち死にをした。

 このように井伊谷三人衆の来歴を確認すると、それぞれは東三河に本拠を置く豪族であり、もともとは井伊谷とはあまり関係がなかったようだ。3人は、遠江の土地勘があったのだろう。

 家康の遠江侵攻の際、この3人が活躍したので、のちに井伊谷三人衆と称されたと考えられる。とはいえ、この3人の手引きがなければ、家康は活躍できなかったかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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