乱世の時代、諸事情により後継者たる子を殺した3人の戦国大名
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の子・松平信康が自害して果てた。今回は、諸事情により後継者たる子を殺した3人の戦国大名を取り上げることにしよう。
1.武田信玄(親)×武田義信(子)
永禄8年(1565)10月、武田義信は飯富虎昌らと、信玄に謀叛を起こそうとした。信玄は、この計画を虎昌の弟昌景(山県昌景)の密告で知った。その後、虎昌は切腹、義信直属の家臣は国外追放処分となり、義信は東光寺(山梨県甲府市)に幽閉された。
永禄10年(1567)8月、信玄は義信に命じると、自害の直前、家臣に進言への忠誠を誓わせる血判の起請文を提出させた。信玄は義信を自害させて家中の統制を図り、同時に自らの権力を家臣に誇示することで、磐石の体制を築いたのである。
2.徳川家康(親)×松平信康(子)
徳川家康は織田信長に味方していたが、妻の瀬名と子の松平信康は敵対する武田氏に急接近したという。通説によると、家康はこの事実を知った信長の命によって、天正7年(1579)に2人を処分したという。しかし、近年の研究で見直されている。
実際は、家康が信康に真意を問い質したうえで自害を命じ、加担した築山殿に対しても同じことを行った。つまり、2人の処分は、家康の判断に拠るものだったと指摘されている。家康は信康らを処分したうえで親信長路線を明確にし、家中の結束を強めたのだ。
3.豊臣秀吉(親)×豊臣秀次(子)
豊臣秀吉には実子がいなかったので、甥の秀次を養子に迎えた。しかし、文禄4年(1595)7月15日、秀次は秀吉の命により高野山(和歌山県高野町)で自害した。秀次に自害を命じた理由としては、無差別殺人を繰り返したことなどがあげられるが、そうではないだろう。
秀吉は関白を秀次に譲ったが、引退したわけではない。それゆえ、秀吉と秀次の政治判断には、たびたび齟齬が生じたという。これ一つに理由を限定できないが、秀吉は秀次をコントロールしにくくなって、自害を命じたのではないか。信玄や家康と同じく、政治路線の相違である。
いかに親が偉大な権力者とはいえ、子には子の考えがあった。それは現代の家族経営の企業と同じことだが、戦国時代には平気で親が子を殺したのである。