吐血地獄からの生還―4
1975年4月、米国はベトナム戦争に敗れ、建国以来初の敗戦に国民の政治不信は頂点に達した。米議会は政治プロセスの透明化を図るため、議会が撮影した審議映像を誰にでも無料で提供する決定を下す。79年3月、民間が運営する議会中継専門テレビ局C―SPAN(シー・スパン)がケーブルテレビでスタートした。
10年後の89年11月、ベルリンの壁が崩れ冷戦体制が終焉に向かう時、英国議会は米国を真似て、議会が撮影した審議映像を放送する民間の議会中継専門テレビ局「パーラメンタリー・チャンネル」をケーブルテレビに誕生させた。
英米共にケーブルテレビに議会中継専門局が誕生したのは、ケーブルテレビが地上波テレビとは異なる「多チャンネル」だからである。地上波は1つの放送局がドラマやニュースなど何でも放送するが、視聴者が見たい時に見たい番組を見れるわけではない。
ケーブルテレビは1つの放送局が映画やニュースやスポーツなど100位の専門チャンネルを持ち、視聴者は見たいチャンネルを選ぶ。だから視聴者は見たい時に見たい番組を見ることができる。
ただ視聴者にすべて自由に選択させれば、ケーブルテレビは娯楽だらけになる。そこでケーブルテレビは、まず基本料金と引き換えに公共放送を30チャンネル程度提供する。これを「ベーシック・サービス」と言う。議会専門チャンネルはその中に組み込まれる。
そのため見るか見ないかは別として、ケーブルテレビの加入者全員に議会チャンネルは放送される。地上波だとNHKの「国会中継」のように、たまに一部の審議が放送されるだけだが、ケーブルテレビでは毎日リアルタイムで議会が放送されている。
70年代後半から始まった米国のケーブルテレビは、90年代には7千万世帯が加入した。7千万世帯と言えば、ほとんどの米国民がケーブルテレビを見ていることになる。
ところが何でも米国の後追いをしてきた日本のテレビが、ケーブルテレビだけは米国の真似をしなかった。それは何故なのか。調べていくと日本のメディアには民主主義とは言えない仕組みがあった。
メディアの世界に身を置く私が知らなかったのだから、一般の国民には全く知らされていない。政治改革の一環として国会テレビを実現しようとしたことが、私に日本のメディアの異常さを教えてくれた。
90年7月、国会テレビの実現に最も前向きだった自民党の吹田あきら(りっしんべんに日と光)衆議院議員から私に「C―SPANを見学したいから案内してくれ」と連絡があり、一緒にワシントンに行くことになった。
出発の日に空港の待合室に行くと、近藤元次、田名部匡省の両衆議院議員がいて、同行することが分かった。これに野中広務衆議院議員を加えた4人が、当時は「郵政4羽カラス」と呼ばれ郵政族議員の代表格だった。
私が驚いたのはそこにNHKとNTTの職員がいたことだ。つまり郵政族議員の外遊にはNHKとNTTの職員が随行し、政治家の面倒を見る習慣があることをこの時私は初めて知った。
飛行機がワシントンの空港に到着すると、そこに小型のチャーター機が3機待っていた。一行はウエストバージニアにある米国で最高級のゴルフ場に向かうという。私は別行動を取ろうとしたが、吹田議員から「一緒に来い」と言われて同行した。
夜になるとNHKのワシントン支局長や米国ソニーの副社長も合流し、ゴルフ場に隣接する高級ホテルで夕食会が開かれた。見てはいけないものを見てしまった気がして私は居心地が悪かった。ホテルに一泊した翌日、一行は再びチャーター機に乗ってワシントン入りした。
C―SPANを見学した吹田議員は「これはNHKにやらせてはだめだ。C―SPANのように新規ベンチャーがやるべきだ」と発言し、随行したNHK職員は顔を引きつらせたが、それよりも私は放送・通信行政の分野でNHKとNTTが別格であるに衝撃を受けていた。
米国でも英国でも議会専門チャンネルはケーブルテレビで実現した。それは視聴率を追求しなくとも良い「ベーシック・サービス」があるからだ。ところがケーブルテレビを所管する郵政省の有線放送課長は、「ケーブルテレビより衛星放送の方がコストが安い」と言い、ケーブルテレビの実現に消極的だった。
「コストが安い」とはどういうことか。衛星を打ち上げるコストはべらぼうに高い。それができるのは大資本だけだ。小規模事業者は町や村など狭い地域にケーブルを引くことしかできない。その小規模事業者が数多く放送事業に参入したから、米国では7千万世帯にケーブルテレビが普及した。
ところが日本はコストの高い衛星放送を実現させ、小規模事業者には手の出ない仕組みを作ろうとしている。それは放送事業への新規参入を制約し、大資本と既得権益を守ろうとする姿勢である。
ある郵政省OBが私にこう言った。「郵政省はケーブルテレビを普及させたかった。私は法案を書こうとした。ところが新聞社が自民党の先生方を使って潰しにかかってきた。地方テレビ局の権益を侵すという理由だ。郵政省はケーブルテレビを普及させない側に回ってしまった」。
郵政省に圧力をかける新聞社の記者を「波取り記者」という。政治家の力を借りて電波利権を得るため郵政省記者クラブに常駐する。それは田中角栄が39歳で郵政大臣に就任し、日本中に地方テレビ局を作ろうと大量免許の方針を打ち出した時から始まった。
新聞社は地方テレビ局を系列下に置き、それを天下り先にするため「田中詣で」に励んだ。各県に新聞社系列の地方テレビ局ができた。そして田中が総理に就任すると、朝日新聞社は教育専門局NET(日本教育テレビ)を総合放送局「テレビ朝日」に変えるよう田中に働きかけ、それを自分の系列にした。
その時、田中は同時に新聞の全国紙とテレビのキー局をすべて系列関係にした。読売―日テレ、毎日―TBS、産経―フジ、朝日―テレ朝、日経―テレ東の5系列が完成し、新聞社は政府から免許を受けるテレビ局を系列に持ったことで、政府に逆らうことができなくなった。
全国紙と全国ネットのテレビ局が系列関係にある国は世界でも日本しかない。米国では全国規模の新聞とテレビが系列関係になることを禁じている。新聞とテレビの相互批判がなくなり、民主主義が健全でなくなるからだ。ところが日本では新聞社が電波利権のためにケーブルテレビの実現を妨害することまでしていた。
私が地方で講演すると、町長や村長から口々に「ケーブルテレビをやろうとしたらNHKとNTTに反対された」と言われた。新聞社が郵政省に圧力をかけてケーブルテレビを妨害する一方で、現場ではNHKとNTTが妨害していた。
受信料で成り立つNHKは、広告料で成り立つ民放とは競合しない。しかしケーブルテレビは基本月額3千円で30チャンネル程度の公共放送を提供する。実現すれば視聴者にコスト意識が生まれ、NHKの受信料が高すぎると批判されるおそれがあった。
また各家庭と線で結ばれるケーブルテレビは電話の機能も持てる。米国では巨大電話会社AT&Tの対抗勢力としてケーブルテレビが登場し、電話事業に競争原理を持ち込んだ。NTTは将来の競争相手の実現を遅らせようとしたのだ。
ケーブルテレビは新聞社とNHKとNTTに妨害された。では日本はなぜ代わりにBS放送を実現しようとするのか。日本より先にBS(放送衛星)を打ち上げようとした米国は、デジタル技術を使えばCS(通信衛星)でも100チャンネルの放送が可能になることを知り、8チャンネルしかないBSの打ち上げをやめた。
ところが中曽根政権は、日米貿易摩擦の解消を口実にして、米国が打ち上げをやめたBSを輸入しNHKに打ち上げさせた。表向きの理由は「難視聴対策」である。離島に電波が届かないという理由でNHKはBS放送を始めた。しかしそれは真っ赤な嘘だった。
難視聴対策ならBSと地上波は同じ内容でなければならない。ところがNHKはBSで地上波とは異なる内容を放送し別料金を取る。本当の目的は、NHKのチャンネル数を増やし肥大化させるためだった。
理由は2つあった。1つはNHKが開発した高画質の「ハイビジョン」を、世界最大の放送機器メーカーだったソニーに協力させ、世界中のテレビを日本の技術で支配しようとした。もう一つは中曽根総理のブレーンで元陸軍参謀の瀬島龍三が、戦前の国策会社「同盟通信」を復活させようとしたことである。
「ハイビジョン」はアナログ技術を使って高画質を実現する。一方デジタル技術は電波を分割して多チャンネルを可能にする。米国議会は公聴会を開き「画質の綺麗なテレビと多彩な情報を提供するテレビのどちらが国民のためになるか」を議論した。
結論は「つまらない番組を綺麗な画面で見ても意味がない」となり、米国は日本の「アナログハイビジョン」を採用せず「デジタル多チャンネル」を採用した。米国の反対によって日本の国策「アナログハイビジョン」は世界から孤立することになった。
この時、国策に逆らって「デジタル技術の導入」を指示したのが郵政省の江川晃正放送行政局長だった。すでに工場の生産ラインをアナログハイビジョン用にしていたソニーの大賀典雄社長は真っ青になったと言われる。
この一件で江川は国策に逆らった官僚として出世の道を閉ざされた。そしてアナログに固執したソニーは放送機器メーカーの地位を失った。かつて世界中のテレビ局はソニーの放送機器を使っていたが、長野五輪の国際放送にソニーの放送機器が使われることは一切なかった。
日本経済はデジタルに出遅れて駄目になったとよく言われる。しかし江川がいなければもっと危機的になったと私は思う。国会テレビを応援した異色の官僚がいたおかげで日本はかろうじて救われた。しかしそれでも世界のどの国もやっていないBS放送を日本はやめようとしなかった。
それは瀬島の野望である「同盟通信」の復活のため、NHKを世界最大の放送局にする必要があったからだ。かつての国策会社「同盟通信」は、昭和11年に戦争遂行のために作られた。海外で日本の宣伝工作を行う一方、海外から情報収集するのが任務だった。
戦後日本を占領したGHQは「同盟通信」を好ましくないとして解体し、共同通信、時事通信、電通の3社に分割した。しかし日本が米国に次ぐ経済大国になったことで、瀬島は情報機関の復活を考え、NHKに「同盟通信」の代わりをやらせようとした。
その頃NHK会長だった島桂次は、NHKをニュース専門の民間放送局に変えようとした。労働組合もNHK民営化に賛成し、NHKは民間子会社を持つことが認められた。電通にNHK担当セクションができ、NHKは受信料以外の収入確保に乗り出す。
受信料で成り立つNHKの予算は国会で承認を得なければならない。しかし民間子会社の経営実態を国会に報告する義務はない。NHKは国会の監視が及ばないところで収入を得、海外での情報収集活動に潤沢な資金を投ずることが可能になった。
1990年11月、日本の国会は開設100周年を迎え、国会では記念式典が行われた。それを機に衆議院事務局は、米国や英国のように国会審議を国会が撮影して公開する構想を発表した。
あとは国会が撮影した映像をどの媒体で放送するかである。しかし日本にケーブルテレビはなく、8チャンネルのBS放送しかない。BSはNHKが2チャンネル、民間のWOWOWが1チャンネル使うと決まっていたので、残りは5チャンネル。それを新聞社が狙っていた。
もし国会テレビをBSでやることが決まれば、読売―日テレ、毎日―TBS、産経―フジ、朝日―テレ朝、日経―テレ東の5系列のうちどこか1つがはじかれる。新聞社の「波取り記者」たちは、スクラムを組んで国会テレビの実現を阻止しようとしてきた。(文中敬称略、つづく)