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モスクワの海。西野ジャパンの名残り

小宮良之スポーツライター・小説家
ロシアW杯に挑んだ日本代表(写真:ロイター/アフロ)

 7月13日、うねるように流れるモスクワ川。そのほとりにある巨大な公園では、日光浴をしている家族やカップルをたくさん見かけた。長方形の人口池を作り、一面にだけ砂浜を入れ、そこから水にじゃぶじゃぶと入っていけるようになっている。小さい子供たちが、きゃっきゃと水遊び。大人は砂浜で寝転んで、じっくりと肌を焼いていた。

「水、濁っていますよね」

 同行のフォトグラファーが訝しむように言う。たしかに深緑色で、プランクトンが発生しているのかもしれない。小さなビーチのような見かけでも、あくまで池だ。

モスクワの「海」
モスクワの「海」

 それでも、ロシア人は短い夏を謳歌する。太陽に恋をする。7月に冷え込む日が続くと、そこから急に夏の気配が消え、冬の気配に取って代わる年もあるという。たとえ作り物の海であっても楽しみたい、という気持ちになるだろう。そうして、マイナス30度の凍てつく世界に備えるのだ。

「呼吸が苦しくなりますね。たまにマイナス20度に上がると、今日はあったかいなと思うんです。人間は環境に適応するようになっているんですね」

 現地でロシア人女性と結婚した日本人男性が、そんな話を洩らしていた。

西野ジャパンの健闘

 西野ジャパンがロシアW杯でベスト16入りの快挙を成し遂げられたのは、ロシアという環境と波長が合い、適応できたからかもしれない。そういう要素がなければ、説明のつきにくいことが起こった。土壌的優位を得たというのか。

 傍若無人な批判に晒される中、選手一人一人が自分を深く見つめるようになった。この大会で、勝ち抜くためには何をする必要があるのか。各々がそれに向き合ったことで、力を出し切ることができた。それによって、幸運にも恵まれることになった。

「(コロンビア戦は)相手が3分で10人になってくれたので、(自分たちの強さを証明できたかどうかは)一概には言えない。しかし、4年前(にグループリーグ敗退して)から止まっていた時間が、いろんな意味で動き出したと思います。自分たちは、良いこと、悪いことを経験してきた。そのおかげで、落ち着いて試合に入れているのかもしれない」

 グループリーグ初戦、コロンビア戦後にGK川島永嗣はそう語っていた。

 ロシアという土地が日本人にとって験が良かった、というのは飛躍しすぎか。しかしすれ違いざま、見も知らぬロシア人に何度も何度も言われた。

「お前らは日本人か?日本のゲームは最高だったぞ!」

 親日家が多いのも、多分にある。ただ、道端でそう祝福されるほどに、ベスト16に進んだ日本の戦いは記憶に残ったのだ。

多様性の社会

 公園を歩き続けると、その端っこにジョージア料理のレストランがあった。テラス席に着くと、英語でも書かれたメニューが手渡される。1991年にソビエト連邦から独立したジョージアは、ロシアと国境を接している。

「どれもおいしいわよ」という気取った顔をして注文を取る女性店員は、W杯のVIPラウンジでも働いているという。

ジョージアのソウルフード、ハチャプリ
ジョージアのソウルフード、ハチャプリ

 ジョージアの主食と言われるハチャプリは、いわゆるチーズ入りパン。パンのくぼみに生卵を乗せ、端のパンをむしり卵につけながら食べる。パンの生地は釜焼きで、食感はふわふわもちもちとし、中に入ったチーズはとろける。他にも、大豆を使った料理やもつ煮込みやナッツで和えたサラダ。ヒンカリという小龍包のような一品は、16世紀までモンゴルに支配されていた名残りか。どれも、おいしかった。

小龍包のようなヒンカリ
小龍包のようなヒンカリ

 200近い民族が暮らしているロシアは、多様性を必然的に抱えている。お互いの距離感を大事にしているようなところがある。例えば、多くの欧米人は顔を寄せ、大きな声を上げ、日本人からすると、一歩引くような距離感でコミュニケーションをとる。しかし、多くのロシア人は相手との間合いを図って、遠慮がちに話す人が多く、その感覚は一般的な日本人と少し似ている。

ロシアの風土で輝かなかった南米勢

 やや論理を旋回させれば、南米勢はロシアの風土に合わなかったのかもしれない。ブラジルがベスト8に残ったものの、他はグループリーグ、もしくはラウンド16で姿を消した。ブラジルも最有力優勝候補だったことを考えれば、真価を発揮できなかった。一方で、ヨーロッパの小国が進撃を見せた。ファイティングスピリットを絞り出したクロアチアやチームとしての戦術完成度が高かったベルギーが、優勝を争っているのだ。

 日本も、土地柄が合ったのか、「神風」を吹かせた。

 そう言えば、本田圭佑はロシアのCSKAモスクワで活躍を見せている。1年目でチャンピオンズリーグ、ベスト8の快挙を打ち立て、しかもカップ戦では優勝。3年目には国内リーグ、国内カップ、スーパーカップの3冠を達成した。4シーズンにわたってプレーし、契約満了で退団。本田のキャリアの絶頂はロシア時代だったと言えなくもない。

「本田はテクニックがある選手だ。CSKAの頃からうまい。また、ロシアに戻ってこないのか?他の日本人選手もボール扱いがうまいね。とても好感が持てる」

 朝早く着いたヴォルゴグラードの駅前で会ったおじさんは、そうまくし立てていた。

サンクトペテルブルクの地下鉄
サンクトペテルブルクの地下鉄

 公園からの帰り道、地下鉄では乗客のほとんどが無言だった。ラテン人なら大声で喚き散らし、歌でも歌い出しそうなところ、とても静かにしている。そこで騒ぐことが、品の悪いことと弁えているように映る。

 もっとも、真相は分からない。

「ロシアの地下鉄は走るときの音がうるさすぎるんです。会話にならない。そこで無理して喋らない文化が自然にできただけかもしれません」

 ロシア在住の人に聞くと、そんな論理的な答えが返ってきた。

 西野ジャパンとはなんだったのだろうか?それも見方による。しかし、一つ言えるのは日本がロシアで爪痕を残したということである。

 7月15日、たったひとつの勝者が決まる。手堅く逃げ切りのフランスか、しつこく諦めないクロアチアか。ロシアの夏はそこに極まる。

 ちなみに、砂浜付きの人口の池は冬になると水が凍って、そのままスケートリンクになるそうだ。

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(本文中の写真はすべて筆者)

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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