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【深掘り「鎌倉殿の13人」】八田知家に斬られた阿野全成の首は、大泉寺まで飛んで行ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
阿野全成の本拠があった静岡県沼津市。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の30回目では、阿野全成が殺されてしまった。全成の首が大泉寺に飛んで行った逸話について、詳しく掘り下げてみよう。

■阿野全成の最期

 阿野全成の謀反(源頼家に対する反逆)が噂になったのは、建仁3年(1203)5月19日のことである。全成の身柄はただちに拘束され、5月25日に常陸への流罪となった。

 同年6月23日、八田知家は頼家の命によって、下野国で全成を切った。その後、全成の子・頼全も佐々木定綱によって、延年寺(京都市東山区)で殺害されたのである。しかし、子の時元は生き残り、決して阿野家が全滅したわけではない。

 全成の本拠は、阿野荘(静岡県沼津市)だった。同地には大泉寺という寺院があり、全成の首が葬られたという。現在も大泉寺には、全成ら阿野一族の位牌や墓が残されている。なお、大泉寺の敷地の大半は、阿野氏館跡だったという。

■全成の首は飛んで行ったのか

 全成が斬られたのは、今の栃木県益子町だったと伝わっている。現在、益子町には、全成の墓と伝わる五輪塔が残っている。

 ところで、全成は知家に首を斬られたとき、その首が大泉寺まで飛んで行って、松の枝に引っ掛かったという伝承が残っている。全成の首が引っ掛かった松の木は、「首掛け松」と称された。

 現在は残念ながら、大泉寺に「首掛け松」は残っていない。その代わり、「首掛け松」の切り株には記念碑が建立され、大泉寺には「首掛け松」の一部が残されている。

 とはいえ、全成の首が大泉寺まで飛んで行き、松の木に引っ掛かったなどは、単なる逸話や伝承に過ぎない。常識で考えると、そんなことはあり得ないのである。

■まとめ

 平将門が討たれたとき、その首が飛んで行ったという話も有名である。それは、将門の無念の思いを逸話に託したものだろう。

 全成の首の話も同じことで、人々がその無念の思いを汲み取り、首が自身の屋敷跡の大泉寺に戻ったと考えたに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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