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【光る君へ】藤原詮子が大きな権勢を持ち、弟の道長を内覧に据えた事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所御内庭。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道隆・道兼兄弟が相次いで亡くなった後、藤原道長が伊周(道隆の子)との政争に勝利し、内覧になった場面が描かれていた。その背後には、道長の姉の詮子の存在があったのだが、なぜ権勢を振るえたのか考えることにしよう。

 応和2年(962)、詮子は摂政・関白を務めた藤原兼家の娘として誕生した。道隆、道兼の妹で、道長の姉である。天元元年(978)、詮子は円融天皇に入内した。このことが、詮子の人生を大きく変えた。

 2年後の天元3年(980)、詮子は東三条邸で懐仁親王(のちの一条天皇)を産んだ。詮子や円融天皇は大喜びだったに違いないが、いちばんうれしかったのは、兼家だっただろう。将来、懐仁親王が天皇になった場合、兼家は外祖父として権勢を振るうことができるからである。

 ところが、兼家の目論見通りにことは進まなかった。天元2年(979)、円融天皇の中宮の媓子が亡くなったので、次に誰を中宮にするのかが問題になったのである。

 詮子が入内した同じ年には、遵子(藤原頼忠の娘)が入内していた。詮子が懐仁親王を産んだのだから最有力候補だったに違いないが、結局、中宮の座を射止めたのは遵子だったのである。

 寛和2年(986)に花山天皇が退位し、一条天皇が即位すると、状況は一変した。兼家は摂政となり、道隆以下の子たちも栄達を遂げた。詮子自身も、皇太后になったのである。

 正暦2年(991)に円融天皇が亡くなると、詮子は出家した。そして、国母たる詮子は、居宅の東三条邸にちなんで、東三条院という院号を用いたのである。これが女院号のはじまりであると言われている。

 以降、詮子は一条天皇の母として、たびたび政治に関与した。詮子は政治の表舞台には出なかったものの、兄弟が摂政・関白になると背後でコントロールしていたのである。

 それゆえ道隆、道兼兄弟が相次いで亡くなり、その後継者を決める際、詮子は決定に大きな影響力を持った。詮子は伊周ではなく、自らが溺愛していたという道長を内覧にするよう画策したのである。

 なお、藤原道長の娘の彰子も、国母として権勢を振るったこともよく知られた事実である。当時の女性は、決して無力ではなかったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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