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【光る君へ】藤原道長との出世争いに敗れ、キレまくった藤原伊周

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所の西築地塀。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道隆・道兼兄弟の死後、藤原道長が内覧になった場面が描かれていた。もう1人の後継候補だった藤原伊周は政争に敗れ、キレまくったというので確認しておこう。

 長徳元年(995)4月10日、関白の藤原道隆が飲水病(糖尿病)で亡くなった。道隆の死後、弟の道兼が後継者となったが、関白に就任して、わずか7日で疫病により病没した。ここで、にわかに浮上したのが、2人の後継者問題である。

 2人の死後、道長(道隆の弟)と伊周(道隆の子)が後継の座を争った。22歳の伊周は内大臣だったが、30歳の道長は権大納言であり、年長ながらも官位が下だった。ところが、道長は一条天皇の叔父だったので、関係性は伊周よりも深かった。

 一条天皇は大いに悩んだが、詮子の強い説得により、道長を内覧に起用することを決定した。その後、道長は伊周の官位を抜き、右大臣に昇進し筆頭大臣になった。こうして道長は、伊周との政争に勝利したのである。むろん、伊周の気は収まらなかった。

 そもそも道隆が危篤になったとき、伊周は後継者になる気が満々だった。しかし、一条天皇の考えもあり、それは叶わなかった。道隆の死後、道兼が関白になった際も、大いに落胆した。伊周は関白への道が断たれたので、ヤケクソになっても無理からぬことだった。

 同年7月、陣座(公卿の会議室)において、道長と伊周が口論となり、それはさながら「闘乱」のようだったという。上官らは壁際に立って、これを聞いていたが、その嘆きぶりは尋常ではなかったという。口論はどっちが原因なのかは不明であるが、政争を引きずっていたのはたしかだろう。

 その直後、隆家(伊周の弟)の従者と道長の隨身が七条大路で大乱闘となり、死人が出るような騒ぎとなった。それだけではない。伊周は陰陽師らを使って、道長を呪詛しているという噂が高階成忠のもとにもたらされた。成忠の娘の貴子は、道隆の妻だった。2人の娘の定子は、一条天皇に入内した。

 このように、伊周はいかに叔父であるとはいえ、道長に先を越されたので、根に持っていたようである。そのことは、のちの花山法皇狙撃事件に繋がるが、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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