【戦国こぼれ話】裏金は本当にあった!? お金の有無で勝敗が左右した合戦3選
今年の衆議院選挙に際して、裏金を要求されたとの訴えがあったが、いったいどうなるのか。ところで、戦国時代の合戦では、お金の有無で勝敗が決まることもあった。代表的な例を取り上げてみよう。
■関ヶ原合戦と小早川秀秋
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦前夜、東西両軍ともいかにして味方を増やすか必死だった。
そこで、調略を行い、敵を寝返らせようとしたが、むろんタダというわけにはいかなかった。
たとえば、東軍を率いる徳川家康は、味方になる条件として、新たに領国を与えることを約束した。
伊達政宗への「百万石のお墨付き」はあまりに有名だろう(結局、実現しなかった)。
西軍に与していた小早川秀秋のもとにも、東西両軍から「味方になって欲しい」との誘いがあった。
むろん、しっかり手土産は忘れていなかった。「タダ」というわけにはいかなかったのである。
秀秋の家臣の稲葉正成・平岡頼勝宛ての井伊直政・本多忠勝の連署起請文では、①秀秋に対して、家康がいささかも疎かにする心を持っていないこと、②稲葉正成・平岡頼勝が家康に忠節を尽くすのであれば、疎かにすることはないこと、③忠節をしたならば、西国方面で2ヵ国の知行宛行状を秀秋に与えること、が記されている(『関ヶ原軍記大成』所収文書)。
一方、石田三成らの起請文には、①秀頼が15歳になるまでは、関白職を秀秋に譲渡すること、②上方での賄い料として、播磨国1国を与える。もちろん筑前国は従前どおりとすること、③近江国で10万石ずつを秀頼から、稲葉正成・平岡頼勝の2人に与えること、④当座の進物として、黄金300枚を稲葉正成・平岡頼勝の2人に与えること、が記されている。
後者の三成の起請文では、家臣の稲葉正成・平岡頼勝に対して、裏金として黄金300枚を与えるというのが興味深い。
しかし、秀秋は西軍には属さなかった。三成の起請文は、文面からして偽文書の可能性がある。
■九州の戦いと黒田官兵衛
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、九州においても東西両軍に分かれて戦うことになった。
当時、豊前中津(大分県中津市)にいた黒田官兵衛は、東軍に属していた。
官兵衛は西軍の諸大名と戦うことについて、家康から軍事行動の許可を得ていた。
そして、勝利して手に入れた領国は、自ら領知することを許されたのである。
ところが、長政が家人を関ヶ原に引き連れたため、中津城の軍勢は手薄であった。
これでは、西軍の諸大名を相手にして、勝利を手にすることは難しい。
そこで、官兵衛は九州の西軍方の諸大名に備えるため、日頃蓄えておいた金・銀を準備しており、奉公したい者があれば貴賤を問わず召抱えたという(『黒田家譜』)。
当時、没落した諸大名の配下にあった牢人(浪人)は、仕官すべく各地をさまよっていた。
彼らは金に困っていたので、その場でとりあえず金銀を配る官兵衛の元に集まったのだ。こうして官兵衛は勝利した。
■大坂の陣と豊臣秀頼
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、豊臣方には諸大名が集まらず、兵力を事欠いた。
その結果、豊臣方に集まったのは、「日用」という日雇いのような武士らで、特定の主人に仕えるのではなく、日銭を稼ぐために戦闘に参加する者たちだった。
吉川広家は書状の中で、「大坂城中のことは、頭分の牢人衆が配下にまた牢人を抱えている。そのほかに、農民なども来年のいつ頃までと約束をして、山を越えてきて城に籠もっている」と記している(「吉川家文書」)。
彼らがわざわざ豊臣家に馳せ参じたのは、かつて秀吉が蓄えた金・銀を丁銀に加工して、身分に応じて与えたからだった。
丁銀とは、なまこの形をした銀貨のことである。戦いで日銭を稼ぐため、集まった軍勢は10万人にのぼったという(一説には19万人など)。
京都所司代の板倉勝重は、10月6・7日の両日にわたって、京都諸牢人のうち長宗我部盛親、後藤基次、仙石秀範、明石掃部助、松浦重政をはじめ、名もなき牢人1000人余りが大坂城に入城したと報告している(『駿府記』)。
そして、彼らが豊臣方から金・銀が与えられていたことも記している。
ありていにいえば、彼らの目的は金であり、あわよくば将来召し抱えられることを願って集まったと考えてよい。
■まとめ
昔から「地獄の沙汰も金次第」というが、それはおおむね当たっている。特に、合戦に際して将兵を集めるには、金が必要だった。
それが汚い金であろうが、裏金であろうが、別に関係なかったのである。