『二十五、二十一』はラブコメの先にある“風景”を見せる──回想されるネット黎明期の若者たち
「遅刻、遅刻~」
食パンをくわえた女子高校生が、バタバタ走りながら学校に向かう──。
それは「食パン少女」とも呼ばれる、ラブコメ少女マンガのステレオタイプだ。Netflixで配信されてきた韓国・tvNのドラマ『二十五、二十一』(全16話/スタジオ・ドラゴン制作)は、まさにこの典型的なシーンから始まる。
しかし他の人気韓国ドラマと同様、単なるラブコメにはとどまらずさまざまな要素が盛り込まれている。それはフェンシングを題材としたスポ根ドラマでもあり、若者たちの群像劇でもある。加えて、90年代後半のインターネット黎明期のコミュニケーションと、通貨危機(IMF事態)直後の混乱した韓国を回顧する社会性も描かれている。
そしてなによりそれは、軸に置いたティピカルな青春ラブコメの先にある“風景”を描いた、大人に向けた物語だった──。
ラブコメ×スポ根×群像劇
1998年の7月、高校生のナ・ヒド(キム・テリ)は食パンをくわえて学校に向かう。スカートの下にいつもジャージを履いている彼女は、幼いころから将来を属望されるフェンシング選手だ。しかし、前年から生じた通貨危機によって韓国社会は大混乱に陥っていた。彼女が通う学校のフェンシング部も予算の関係で廃止される。
そこでヒドは有力高校へ転校する。そこには、オリンピックで最年少金メダリストになったコ・ユリム(キム・ジヨン=宇宙少女・ボナ)がいた。ヒドは憧れの存在の彼女とともにフェンシングを続ける。しかし、ユリムはヒドに対して優しくない。
ヒドの趣味はマンガを読むことだった。いちばんのお気に入りはウォン・スヨンの『フルハウス』という作品だ(2004年にRain主演でドラマ化)。彼女はこの作品をきっかけに、貸本屋のアルバイトと新聞配達をかけもちしている青年ペク・イジン(ナム・ジュヒョク)との仲を深めていく。
そんなイジンは、もともとは裕福な家庭の御曹司だった。大学入学を機にフォードの赤いマスタングをプレゼントされるほどに。しかし、金融危機によって一家は没落。大学も中退し、両親とも離れ離れとなり複数のアルバイトをかけもちする日々を送っている。
こうした前半は、ラブコメの少女マンガをそのまま映像化したような展開と、フェンシングにかけるスポ根の要素がミックスされたベタな展開が続く。
しかし、このドラマの真骨頂はこれ以降だ。中心の3人と、ユリムの彼氏ムン・ジウン(チェ・ヒョヌク)、そしてヒドとユリムの同級生でチ・スンワン(イ・ジュミョン)の群像劇として、物語は進んでいく。
ネット黎明期の“すれ違い”
この物語は1998年から始まるが、韓国社会が通貨危機で混乱するこの当時は、インターネット黎明期でもあった。就任間もないキム・デジュン大統領は、低迷した経済を立て直すためにITを国の基幹産業に据え、国民は安価にパソコンとネットインフラを整えることができた。
このドラマにおいても、貧しい家庭のユリムでもパソコンを持っているのは、そういう背景があるからだ。そしてネットを通じて世界を席巻する現在の韓国ドラマやK-POPも、この時代の産業構造改革の産物とも言える。
ドラマでは、ヒドとユリムが見知らぬ相手とチャットをしてだれにも伝えることのできない胸のうちを明かしている。そしてスンワンはインターネットラジオを運営している。
同時に、この頃は携帯通信端末が浸透していく時期とも重なる。登場人物は、当初ポケットベルを持っているが、ほどなく携帯電話を持ち、その後は携帯メール(SMS)でやり取りをするようになる。日本と同じく、80年代前半に生まれた若者は携帯コミュニケーションツールの急速な発展を青春期に経験した稀有な世代だ。
だがインターネットや携帯電話は、当時のクリエイターにとっては悩みのタネだった。なぜなら、“すれ違い”が生じにくくなるからだ。待ち合わせで片方が遅刻しても連絡がとれるため、恋愛シチュエーションなどでハードルを設定しにくくなったのだ。
しかし『二十五、二十一』が出色だったのは、そうした状況を上手く使った点にある。このドラマは、ネット黎明期だからこそ生じるコミュニケーションの不完全性をしっかり描いた。
『リリィ・シュシュのすべて』をヒントに
90年代末のこの時代、対面ベースのコミュニケーションを軸とする“すれ違い”は生じにくくなったが、(SNS以前の)ネット黎明期だからこその新たな“すれ違い”が生まれた。それを描いたシークェンスがヒドとユリムのチャットだ。
直接会ったことはないが信頼できる友達──現在では珍しくないこうした関係性が生まれ始めたのはこの頃からだ。それらは日本映画の『(ハル)』(1996年)やハリウッド映画『ユー・ガット・メール』(1998年)などのフィクションでも描かれたが、それをきわめて巧みに、かつ孤独感を抱える若者たちのコミュニケーションの不完全性としてネガティヴに描いたのは、岩井俊二監督の映画『リリィ・シュシュのすべて』(2001年)だった。
ヒドとユリムが体験するチャットを通じたコミュニケーションは、おそらく『リリィ・シュシュのすべて』で描かれたエピソードをヒントとしている。もっとも信頼できない相手が、もっとも信頼できる相手だったという設定は同じだ。
しかし、『二十五、二十一』はそれをポジティブに変換した。ライバル関係だからこそ生じてしまった若者たちのコミュニケーションの複雑性を、ネットを通じたコミュニケーションによって縮減する──それは岩井俊二のアイディアを翻案した秀逸な表現だった。
ヒドはイジンを「オッパ」と呼ばない
このドラマは、ヒドの娘が彼女の日記を読んで回想するという設定でもある。視聴者がこういうタイプで思い出すのは、過去に3作創られたドラマ『応答せよ』シリーズだ。現在から青春期を回想する形式で進むそれらの物語は、若き日の主人公がその後だれと結ばれるのかが物語の焦点だった。
『二十五、二十一』もベースは同じだ。物語は段階的に進み、タイトルでもあるふたりの年齢──25歳と21歳に近付いていく。それは2001年段階でのイジンとヒドの年齢だ(韓国なので数え年)。
物語は、後半で交際を始めるヒドとイジンとの関係に焦点が絞られる。ふたりにはとくに恋のライバルもいないので、順調に関係は続いていく。
特徴的なのは、そこでの男女の立ち位置が従来のラブコメとは逆の関係性であることだ。ヒドは主体性をもってフェンシングで頂点を目指し、イジンに対しても(勘違いがきっかけではあったが)「私はあなたを手に入れる」と宣言をする(9話)。対してイジンは、記者としてヒドのことを見守る。
とくに興味深かったのは、交際を始めた後もヒドはイジンのことを「オッパ(お兄さん)」と呼ばないことだ。恋人に限らないが、親しい関係では女性が年上の男性に対して「オッパ」と呼ぶのが韓国では通例だが、このドラマでヒドは「あなた/君」やフルネームの「ペク・イジン」と呼ぶことばかりだ。
一方で、ヒドが先輩の男子選手を「オッパ」と呼ぶシーンを見て、イジンが激しく嫉妬し動揺するシーンもある。それらはこのドラマが従来のラブコメとは異なることを示している。
ラブコメの先にある風景
二人の関係は、後半になるに連れて先行きが見えなくなる。この物語を回想するヒドの子供の名字はイジンとは異なるなど、イジンとの関係が続いているのかどうか視聴者は混乱させられる。
そしてこの先には、ベタなラブコメではありえない結末が待っていた。最終話で明らかとなるすれ違いは運命のいたずらのようなもの。しかし、その結末にいたったのもふたりが偶然に出会ってしまったからでもある。ラブコメとしてスタートしたこのドラマは、その先にある大人の物語に着地して幕を閉じた。
このドラマのオープニングはVHSの映像だ。コントラストが弱く、ぼんやりとしていて、ときどきノイズが入る不鮮明さ──それは彼らが過ごした現在から四半世紀ほど前の青春のイメージだ。当時は、SNSなどが一般化した現在のようなコミュニケーション過多の時代ではない。若者たちのコミュニケーションの解像度はいまよりもずっと低く、ときにそれによって大きなすれ違いも生じてしまう。
このドラマが切なさを感じさせながらもさっぱりとした観賞感をもたらすのは、その解像度の低いコミュニケーションこそが青春でもあるからだ。思い起こすと恥ずかしいことばかりで、デタラメな行動も多く、いまとなってみればなにを考えていたのかわからない──多くのひとが抱えるそうした青春期は、ぼんやりとしつつも明るい光に包まれている。そしてそうした青春の先にある現実を経て、現在に至る。
『二十五、二十一』はラブコメの先にある“風景”を描いた大人に向けた秀作だった。
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