「怒り」がエネルギーになるとき破滅に向かうとき:ノーベル物理学賞中村修二氏「怒りが私の原動力」
■青色LEDでノーベル物理学賞の中村修二教授「怒りが私の原動力」・「怒り」でノーベル賞?:
中村修二先生(カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)は、もの言う研修者です。反骨の人、異才の研究者として、「怒り」が、研究を進める動機となったと語っています。
こうして、赤崎勇名城大教授、天野浩名古屋大教授と共に、ノーベル賞を受賞です。
ノーベル賞選考委員会は、3人の受賞理由について、「3人の発明は革命的で、20世紀は白熱電球の時代だったが、21世紀はLEDによって照らされる時代になった。誰もが失敗してきたなか、3人は成功した。」と語っています。
■「怒り」とは
怒りの感情は、心身を活性化します。必要に応じて戦う準備を体がしてくれます。ただし、怒りの感情だけが脳の中を吹き荒れてしまえば、理性を失い、暴力に走ってしまうこともあるでしょう。
社会心理学の研究によれば、男性も女性も同じように怒りを感じますが、男性は身体的攻撃で怒りを表すことが多く(殴る蹴る)、女性は関係性を攻撃しやすい(悪口、仲間はずれ)と言われています。
こんなことをしていれば、良いことは起きないでしょう。怒りのために我を忘れ、周囲からの評価が落ちれば、ますますイライラし、悪循環に陥ります。
しかし、「怒り」を「昇華」させれば、すばらしい活動もできます。
■スポーツでも
たとえば、ボクシングはハングリースポーツと言われますが、ガッツ石松さんは、子どものころ貧しくて母や自分を馬鹿にされたことが、エネルギーになったようです。
内藤大助さんも、母子家庭でまずしく、いじめられていました。「ジムに通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても、『ジムに行っている』と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思った」と語っています。
彼らは、ただ泣くだけではなく、八つ当たりするのでもなく、ボクシングというスポーツに取り組み、成功しました。
■怒りで成功する人、失敗する人:個人的恨みと攻撃を超えて
一時の怒りの感情だけで行動すれば、失敗するでしょう。怒りの思いを、どのように表現するかが問題です。
スポーツでも、研究でも、職場でも、侮辱し攻撃してくる人はいます。でも、その個人に怒りを持ち続けてしまえば、けんかするか、やる気をなくすことになるでしょう。
成功する人は、怒りを個人的な恨みや攻撃ではなく、もっと広く大きなものに向けるのです。
■目標を持ち、好きになること
最初は、怒りにまかせてサンドバックをたたいていた人も、しだいにボクシングの魅力を知ることになります。いじめっ子のあいつをやっつけるといった小さなことではなく、本当の意味で強くなることを目指します。
中村修二先生も、怒りによって、青色LED研究にさらに熱心に取り組みます。怒りによる気持ちの高揚はあったでしょう。そうでなければ、辞職覚悟で社長と直談判なんてできません。
でも、中村先生は研究が大好きでした。青色発光ダイオード(LED)に夢を持っていました。今回のノーベル賞受賞に伴うインタビューでも、研究者にとって一番大切なことは何かと問われ、「好きになること」と答えています。
怒りの感情をどこに向けるか。個人に向けたり、八つ当たりしたり、物にあたっているのでは、ストレス発散にはなっても、人生の成功にはつながりません。
怒りの感情を、何かすばらしい方向に向けること、その活動を好きになることが、大切なではないでしょうか。
■攻撃とは
日本では、「攻撃的な人」は、ほとんど悪口でしょう。でも「アグレッシブな人」というのは、必ずしも悪口にはなりません(アメリカなら、ほめ言葉?)。積極的な人と翻訳すれば、日本でも悪口になりませんね。
中村修二先生は、「訴訟なんて起こすと、ノーベル賞が取れないぞ」といろんな人に言われたそうです。でも、先生はアグレッシブな姿勢を崩しませんでした。
中村先生は、研究でも、社会においても、アグレッシブだったのでしょう。
攻撃自体は、悪いことではありません。スポーツや他の領域でも、「攻撃的に行け」とか「攻撃的布陣」というのは、悪い意味ではないでしょう。
ただし、「攻撃」に「悪」の要素がはいると、「暴力」になります。身体的な暴力、言葉の暴力など、暴力的になってしまば破滅です。
■怒りを勇気に
人から侮辱され、その言葉を真に受けてしまうと、自尊感情(自己肯定感)が下がります。すると、子どもが泣きながら物を投げつけるような心理や行動が生まれます。これは、怒りが破滅に向かうパターンです。
怒りによる感情の高ぶりを、勇気に変えましょう。社会悪に怒りを感じて、市民運動を起こす人もいます。勇気のいることです。社長への直談判も、とても勇気がいりますね。ただし、怒りにまかせた無鉄砲ではありません。
■見返してやる:悔しさの感情
怒りが直接相手への攻撃、暴力に向かわなくても、「見返してやる」という思いはわいてきます。
見返してやるために、相手を不幸にしようなどと思えば、多くの場合、自滅して身の破滅でしょう。そうではなくて、見返してやると思って、仕事やスポーツに努力すれば、結果的に成功が待っているかもしれません。
熱心に取り組んでいれば、いつか、個人的に見返すといった思いからも卒業するでしょう。
人に批判され、非難され、侮辱され、その「悔しさ」が仕事のエネルギーになったという話は、様々な分野の多くの人から聞く話です。私も経験があります。
「悔しさ」は、本来の私ではないという感覚でしょう。最初からできるわけがないことができなくても、悔しくありません。本来の私ならばできるはずなのにできない、それが悔しさです。人に指摘されれば、なおさらです。
そこから、本来の私の実力はこんなものではない、もっとがんばってやるという感情がわくのでしょう。
「見返す」方法は、いろいろあるかもしれません。でも相手の不幸を願う見返し方は、うまくいかないでしょう。そうではなくて、幸せにになること、個人的な感情から卒業し、本当の意味で成功すること、これこそが「見返す」ことではないでしょうか。
こんなふうに考えて、私たちも「怒り」の感情を上手に使いこなしたいですね。