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【その後の鎌倉殿の13人】北条義時の死によって乱れ飛んだ息子・北条泰時に関するきな臭い噂とは

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)6月中旬の北条義時の急死を受けて、嫡男の北条泰時は、6月28日、伯母の北条政子(源頼朝の妻。義時の姉)から「武家の政治」を執り行うよう命じられます。泰時の執権就任です。

(このような事を急に決めてしまわれて良いのか)と悩む泰時に対し、幕府の重鎮・大江広元は「良いのです」と断言。泰時も覚悟を固めたと思われます。

しかし、その頃、巷にはある噂が流れていました。それは「泰時は、弟たちを討ち滅ぼすために、都から鎌倉に戻ってきたのだ」というものでした(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。

泰時の父・義時には何人もの男子がいました。1人が長男の泰時。彼の母は、阿波局という幕府の女官(大河ドラマ鎌倉殿の13人では、伊東祐親の娘・八重)。

次男が北条朝時。朝時の母は、姫の前というこれまた幕府の女官でした(ドラマでは比奈という名前でした)。ちなみに、姫の前は比企一族、比企朝宗の娘です。3男が、北条重時。重時の母も姫の前です。

4男が、北条有時。有時はドラマには登場していませんでしたが、母は、伊佐朝政の娘と言われています。

そして5男が、北条政村。政村の母が、あの伊賀の方、ドラマでは「のえ」という名で描かれた女性です。菊地凛子さんが演じて、夫・義時を毒殺する「悪妻」として強烈な印象を視聴者に残しました。伊賀の方は、政村の他にも、北条実泰、時尚という男子を産んだとされます。

さて、北条泰時がこれら異母弟を討つために鎌倉に戻ってきたとの流言に最も身構えたのは、伊賀の方の子・政村周辺だったと言います。

それはなぜなのか?これは、一波乱ありそうです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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