明智光秀は『愛宕百韻』の中で、土岐家の再興と天下取りを宣言したものではない
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が勃発したが、明智光秀は直前に『愛宕百韻』の中で土岐家の再興と天下取りを宣言したといわれている。それが事実なのか確認しよう。
天正10年(1582)5月27日、明智光秀は愛宕山(京都市右京区)に登り、翌28日に坊舎の西坊威徳院で連歌会『愛宕百韻』を興行した。このとき光秀は、有名な「ときは今 あめが下しる 五月哉」という発句を詠んだ。
この発句の「とき」は「土岐」と解釈され、土岐氏の支族である明智氏が「あめが下」つまり天下を取ることを意味し、織田信長への謀叛の意を表明したと解釈されてきた(「しる」は「なる」とも書かれている写本もある)。本当に、そう考えてよいのだろうか。
光秀が土岐氏の庶流・明智氏の流れを汲むという説は、そもそも疑問がある。残っている系図などの史料は、光秀の父の名前がバラバラで、しかも出自に関する説すら一致しない。残っている史料から、光秀が土岐氏の庶流・明智氏の流れを汲むとは断言できない。
重要なことは、わざわざ光秀が「これから謀叛を起こしますよ」というメッセージを披露する必要があるのかということだ。情報が信長に漏れる可能性があるので、常識的に考えるとありえない。
また、『愛宕百韻』が本能寺へ出陣する際の出陣連歌であると指摘する向きもあるが、やはり光秀が「これから信長を討ちに行きます」と宣言することは、リスクが高いので考えられない。では、『愛宕百韻』の意味をどう考えるべきだろうか。
この直前、信長は光秀に対して、備中高松城(岡山市北区)を水攻めにしていた羽柴秀吉への援軍を命じていた。光秀が愛宕山を訪れたのは戦勝祈願のためであり、『愛宕百韻』は勝利を祈念する出陣連歌だった。この見解が今は通説となっている。
光秀はかねて里村紹巴と交流があったので、連歌会へ参加を依頼し、戦勝を祈願したのだろう。愛宕山で連歌会を終えた光秀は、その日のうちに居城のある亀山(京都府亀岡市)に帰還した。
『愛宕百韻』について、独自のややこしい解釈を施した例は多数あるが、わざわざ裏の裏を読むような深読みをし、不可思議な解釈をすることは不要である。連歌は暗号でもなければ、特定の人しかわからないメッセージでもない。
常識的に考えても、光秀が連歌会で謀反の意を堂々と披露するとは思えない。『愛宕百韻』は光秀が中国出陣を前にして、出陣連歌を催したと考えるべきだろう。