リーダーが追放された ドナー隊の悲劇
19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。
しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。
この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。
リード、追放
10月に入り、ドナー隊はフンボルト川沿いを進む中、パイウート族と遭遇しました。
数日間同行する間に、彼らは家畜を次々と失い、さらなる困難に直面します。
そんな中、ドナー家が先行していた隊の中で馬車同士がもつれる事故が発生しました。
怒りに駆られたジョン・スナイダーは、リード家の御者を殴りつけ、これを止めに入ったジェイムス・リードに対しても暴力を振るいました。
リードは反撃し、スナイダーを刺して命を奪ってしまいます。
この事件により、ドナー隊内での緊張が一気に高まります。
アメリカの法律が及ばないメキシコ領内では、幌馬車隊が自ら裁きを行うことが一般的でした
。目撃者たちはリードの処遇を協議し、最終的に彼を追放するという決定が下されたのです。
リードは翌朝、一人で隊を去ることを余儀なくされましたが、娘のヴァージニアが密かに彼に銃と食料を渡しました。
ドナー隊はもともと寄せ集めの集団であり、これまでの試練で派閥が生まれ、互いに不信感を抱くようになっていました。
過酷な状況下で家畜が衰弱し、全員が徒歩で進むことを余儀なくされたのです。
キースバーグは、年配のハードクープを馬車から降ろし、歩かないなら死ぬしかないと告げるほどに、状況は絶望的でした。
やがてハードクープは行方不明となり、仲間たちは彼を探すことすら拒んだのです。
一方、リードはドナー家に追いつき、ウォルター・ヘロンとともに先行します。
しかし、原住民による襲撃でグレイブス家の馬が全て失われるなど、不運は続きました。
家畜を次々に失い、食料も底を突いたドナー隊は、目の前に広がる砂漠を前に絶望に包まれたのです。
エディ家やリード家も馬車を放棄し、徒歩で過酷な旅を続けることを余儀なくされます。
そんな中、助けを求めてカリフォルニアに向かったスタントンが戻り、少量の食料とともに二人のミウォーク族の男性を伴って現れました。
彼の知らせによれば、リードとヘロンはサッター砦に到達し、助けを求めているとのことです。
この時点で、ドナー隊の人々は最悪の部分は過ぎ去ったと思いたかったでしょう。
しかし、彼らの試練はまだ終わりを迎えていなかったのです。
最後にして最大の難関
ドナー隊は10月下旬、最後の難関である山脈越えに差し掛かりました。
この山脈はワサッチ山脈よりもはるかに険しいとされ、隊は家畜を休ませるか、そのまま進むかの選択を迫られたのです。
時は10月20日、峠が雪に閉ざされるのは11月中旬からだと聞かされ、急がなければならない状況でした。
10月25日頃、ハンボルト川でウォルフィンガーが何者かに殺害される事件が起きました。
後の調査で、キースバーグ、ラインハート、スピッツァーらが犯人と推測されています。
その後、10月30日にウィリアム・フォスターの銃が暴発し、ウィリアム・パイクが死亡する事故が発生しました。
これにより、焦りと恐怖が一層高まり、ドナー隊は次々と出発を決意します。
まずブリーン家が先頭に立ち、次にキースバーグ家、スタントンとリード家、グレイブス家、マーフィー家が続きました。
ドナー家は最後尾を守りましたが、不運は続き、馬車の車軸が折れるトラブルが発生します。
代替品を作るため、ジェイコブとジョージ・ドナーが林に入りましたが、ジョージは作業中に誤って手を切る事故に見舞われたのです。
この時点では浅い傷と思われましたが、後に大きな影響を及ぼすこととなります。
一行が山脈を越えようとした矢先、雪が降り始めました。
ブリーン家はトラッキー湖(現・ドナー湖)に向けて、急勾配の斜面を登り、小屋の近くで野営を開始します。
エディ家とキースバーグ家もこれに合流し、峠越えを試みます。
しかし既に積雪が5 - 10フィート(1.5 - 3メートル)にも達し、道が見えなくなっていました。
結局、彼らはトラッキー湖畔に引き返し、翌日までにドナー家以外の全家族が付近に集まり、野営を行います。
ドナー家はその時点で後方に5マイル(約8キロ)、片道半日分ほど遅れをとっており、孤立していました。
その後数日間、何度も馬車や家畜と共に峠を越えようと試みますが、積雪と厳しい地形に阻まれ、すべての試みは失敗に終わりました。
この厳しい自然の猛威により、ドナー隊の苦難はさらに深刻さを増していきます。