【その後の鎌倉殿の13人】執権・北条泰時が「白雪」を恐れた意外な理由
寛喜2年(1230)6月16日、晴れの日。美濃国(今の岐阜県)から飛脚が鎌倉にやって来ました。幕府に参じた飛脚は「当国(美濃)蒔田荘において、去る9日午前、白雪が降りましてございます」と言上します。この報せを聞いて、「畏怖」(とても恐れた)のが、鎌倉幕府の3代執権・北条泰時でした。この季節に雪が降るということは驚くべきことかもしれませんが、泰時は大いに恐れたのです。そればかりか「徳政(免税・大赦などの恩恵を施す政治)を行うべき」ことを沙汰したのでした。これまでに、6月に降雪があったのは、孝元天皇・推古天皇・醍醐天皇の御代(485年、587年、930年)の3例のみであり、何れも「不吉」だと『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)は記しています。美濃蒔田荘に雪が降った6月9日と言うと、幕府御所に落雷があり、死者が出た日でもありました。美濃と相模は遠距離にもかかわらず、このような「怪異」が同時に起こったことは「驚くべきことだ」と『吾妻鏡』は記載します。6月に降雪があることを当時の人々は「怪異」と見做し、不吉としたのです。寛喜2年(1230)の6月は、雨が頻りに降った月でもありました。これは豊作の前兆と考えられていましたが、冷気が多く、不作が予想されていました。飢饉が発生する恐れもあります。泰時はこうした状況を受けて、戦々恐々としつつも、我が身を忘れて、世を救う決意を新たにしていました。