26年の騎手生活にピリオドを打った山本康志のこれまでとこれから……
女手一つで育ててくれた母の下を旅立ち騎手に
9月27日の中京競馬。第1レースでアーネストホープに騎乗し、9着だった山本康志。これが現役生活26年目の最後の騎乗だった。
「いいこと思いつきました。僕の騎手人生のすべてを平松さんは見てきてますよね。だから書いてもらえればと考えまして」(原文まま)
9月中旬、山本から突然このようなLINEが届いた。勿論、全てをみてきたわけではないので、改めてこちらから取材を申し込み、リモートでじっくりと話を伺った。
山本が生まれたのは1977年2月28日。現在43歳だ。東京都板橋区で母さえ子の下、2人の妹と共に育てられ、10歳の時には親の都合で茨城に引っ越した。
「サッカー少年で勉強も嫌いではありませんでした。負けず嫌いのくせに何をやっても長続きしない。そんな子でした」
ある日、飼っていた犬が子供を産んだ。地方紙に掲載し、もらい手を募集すると、たまたまそれを読んだ美浦トレセン勤務の人が手を挙げてくれた。
「譲りわたしに行った際、馬を見せてもらいました」
これがサラブレッドとのファーストコンタクトだった。しかし……。
「それで興味を持ったわけではありませんでした。それからしばらくした頃にテレビで武豊さんのドキュメンタリー番組をやっていて、それを見て、騎手に興味がわきました」
こうして競馬学校を受験すると、合格した。ただ、入学後は慣れない環境に辞めたくなった。女手一つで育ててくれた母のさえ子にその事を相談した。すると……。
「『我慢ができない人間はこの先も同じように逃げる人間になるから、卒業まで頑張りなさい!』と尻を叩かれました」
デビューし、やがて障害が中心に
こうして95年、競馬学校を卒業し、美浦・佐々木亜良厩舎からデビューを果たした。
「デビュー戦はゲートを出てちょっと控えたら一気に後方までさがってしまい、結局、何も出来ずに終わってしまいました。周囲からは『数を乗らなきゃ上手くならない』と言われました」
結局デビュー年は1勝に終わった。しかし、周囲の皆が言う通り、経験を積むにつれ、成績が上がり出した。2年目は8勝、3年目には18勝まで勝ち鞍を伸ばした。しかし、当時は3年で減量の特典がなくなる時代。4年目が13勝、5年目は7勝と苦戦を強いられた。
「そんな時に懇意にしてくれていた調教師に『障害でよければうちの馬に乗せられるぞ』と言われました。障害には1年目から乗っていたし、平地は他の厩舎で続けて乗っていこうと考えていたので、承諾しました」
ところが障害を乗り始めると本人の思惑に反し、周りの目が障害ジョッキーとして認識するように変わってきた。それは「ある程度の想定は出来たけど、決して求めていたものではなかった」(山本)。
2001年にはこんな事があった。4月14日に行われた中山グランドジャンプ(J・G1)。山本の乗ったコバノスコッチは道中4頭が落ちた事故に巻き込まれ、落馬した。鞍上を失ったコバノスコッチは、しかし、その後も上手に飛越を繰り返し、最終コーナーを先頭で回った。
「もちろん失格ですけど、結局カラ馬のまま勝ち馬に次いでゴールに入線しました」
それを見て、山本は考えた。
「騎手が乗っている時もカラ馬みたいに出来たらもうワンランク上にいけるのでは……と考えました。だから騎手主体の“飛ばす”という考えから馬主体で“飛んでもらう”という意識に変わりました」
すると徐々に障害での道が拓けた。2000年代半ばには騎手として晩年を迎えていた大江原隆に、大久保洋吉や高橋裕といった調教師を紹介してもらった。05年に大江原が現役を退くと、本格的にそれらの厩舎から依頼される数が増えた。そんな中にメジロベイシンガーがいた。同馬は入障初戦で山本を乗せて2着すると、3戦目には早くも勝ち上がった。
「牝馬なのに中山で勝てる。ピッチ走法でまず障害を失敗しない。大久保洋吉厩舎の馬でスタミナがある。それらの事から“大成出来る馬だ!”と考えて乗るようにしました」
ある意味、そのヨミは的を射ていた。4戦目のオープンを連勝。その後も1番人気に推され続けた。しかし……。
「気が強過ぎて難しい面がありました。喧嘩をするくらいならと思い、馬群の外を回す競馬をしてみたのですが、惨敗してしまいました」
そこで新潟ジャンプS(J・G3)では「バランスを崩してでもあえて馬群の中で競馬をさせた」(山本)ところ、見事に優勝した。山本にとってもこれが嬉しい重賞初勝利となった。メジロベイシンガーについては「その後も同じ戦法で中山大障害を3着に好走出来ました。牝馬でも障害のセンスさえあれば上を目指せるという僕の中での基準になりました」と評した後、続けた。
「同じ年に高橋裕先生のバローネフォンテンで東京オータムジャンプ(J・G3)を勝てました。苦しい時に助けてくださった両先生の馬で重賞を勝てたことは、嬉しかったし、紹介してくださった大江原さんには今でも感謝しています」
G1制覇もコロナ禍に巻き込まれ引退を決意
また「自分の頑張りが報われた時だとも思えた」と更に続けたが、勲章の大きさという意味ではもっと報われる時が、この6年後にやってきた。11年12月24日、マジェスティバイオに騎乗して中山大障害(J・G1)に挑戦。1番人気に応え、人馬ともに初めてとなるG1制覇を成し遂げてみせたのだ。
「前哨戦のイルミネーションジャンプSの際、主戦の柴田大知が他のお手馬と重なったため、僕に回ってきました。そのレースは2着だったのですが、ケタ違いのスタミナを感じさせる走りをしたので、G1でも僕が落ち着いて乗れれば勝てるというイメージを持って臨みました。乗せてくださった田中剛調教師に感謝すると共に、運が良かったのだと今では思っています」
“運が良かった”と語る山本だが「幸運が訪れた時、それを掴む準備は常にしてきたつもり」とも言い、更に続けた。
「2年目で早々にフリーになった時も障害を主戦にした時も敗者復活戦のつもりでいました。平地競走で出世出来なくても障害へ転向して持ち味を発揮する馬と自分を重ねて、いつかは自分も、と思って頑張ってきました。結局G1勝ちは1つだけだったけど、沢山の人や馬に助けてもらい、26年間もジョッキーを続ける事が出来たのですから、僕の騎手人生そのものは運が良かったに尽きると思っています」
今後は奥平雅士厩舎で持ち乗り調教助手をすると言う山本に、騎手引退の寂しさがないのか?を問うと、答えた。
「コロナの影響で引退が早まったかもしれないけど、騎手に対する未練はありません。これまでも一緒に勝利を目指してきた厩舎スタッフの立場に変わるだけですからね。今まで同様、頑張りますよ!!」
直接見る事は出来なかったが、そう語る笑顔から今にも涙がこぼれ落ちそうになっているであろう事は、容易に想像が出来た。山本の第2のホースマン人生に幸運が訪れる事を願おう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)