次期監督代表報道の前にやるべき「総括」
再び「間違い」が起きる危険性が!
日本代表次期監督に、メキシコ人のハビエル・アギレがほぼ決定のような報道が出ている。
日本人と似た体格のメキシコを率いて2度ワールドカップベスト16に入った。
これまでは堅守速攻の組織を作ってきた。いかにも合理的……
という見立てに、ちょっと待ったを言いたい。
筆者にはかつてメキシコリーグでプレーした日本人プレーヤーの友人がいる。彼がメキシコのユース世代の指導者がよく口にする言葉として、こんなフレーズを教えてくれたことがある。
”まずは自分。次に自分。そして最後に自分”
それくらいに「個」を尊重するということだ。
組織を組み立ててくれるからいい、という考えではまたザッケローニと同じ失敗を繰り返す。
ヨーロッパ・南米とでは「個」と「組織」という観念が違うことをしっかり認識すべき。ここでいう「個」とは、キリスト教社会伝来の「社会の構成員として役割を果たせないことを恥ずかしく思う、尊厳ある個」。そういうメンタリティを指している。筆者の持論では、戦術とは本来、時にチーム内でぶつかりあう「個」を効率的に動かすためにあるもの。日本では何かと「戦術まずありき」という話になるが。
それはそうと。
「アギーレ確実視」の報道の一方で思うのが、「ザッケローニ時代の総括がまず先だろ」という点。過去をあやふやにすることは絶対に避けなければならない。ならばこちらで総括を。「メッシと滅私式」に見たザック・ジャパンのワールドカップでの戦いをまとめたい。筆者にとっての「個」とは、「外国と比較した日本の姿」を示すことなのでこの観点から!
やはり猛烈な「個」「キリスト教文化圏」を感じる大会
結論に入る前に、小話をいくつか。
本大会を眺めていると、やっぱりキリスト教圏の猛烈な「個」が幅を利かせているなと感じる。
ウルグアイのスアレスが例の”かみつき”で大会を去ることになった。
日本から見るともちろんとんでもない事件だが、その後のブラジルを離れる際の映像にさらに衝撃を受けた。堂々と歩き、一瞬サムズアップすらして見せる。「世間様に顔向けでできません」といった申し訳なさそうな態度は一切なし。オレが瞬間的にそれが正しいと思った。「組織」が勝つための「個」の気持ちがちょっとだけ悪い方向に出ただけ。いかにもキリスト教文化圏的、というと言い過ぎか。
自己主張が猛烈、という点もあらためて感じた。
大会前、すわ内紛勃発か? と報じられたオランダがベスト8に入り、ギリシャもベスト16入りを果たした。日本代表を取材していても、選手同士の言い合いは目にしたことがあるが、オランダは練習中のファウルを巡り、選手同士が取っ組み合いのケンカ。ギリシャに至っては「言い合いから、当事者が帰国便まで予約しようとした」との報が流れた。日本では「おっしゃ、グループリーグ第2戦はいただいた」というくらいの楽観ムードが流れたが、実際の結果はドロー。思う展開にはならなかった。ヨーロッパのチームにあって、「個」の主張の衝突はたいした出来事ではなかったのだ。もちろん、前回大会のフランスのような選手による練習ボイコットという事態になればチームは崩壊するが。度の過ぎた存在、たとえばフランスのナスリ、アルゼンチンのテベスなどは最初からエントリー外にしたおいたということか。
キリスト教圏の文化といえば、「あらかじめ運命が決まったこと」といった予定説的な考え方も興味深い。
グループリーグ3戦目が終了した後、ドイツのミュラーがこんな発言をしていた。
「優勝するためにここに来た。このまま運を味方につけて戦っていきたい」
優勝をする、と自分の強い意志を示しながら、「運を味方につける」と神頼みと思えるような発言をする。この矛盾が興味深かった。自分はやることをやるが、あとは神が決めるという。
オランダのロッベンもグループリーグ終了後、こんな発言をしている。
「次の相手がどこでも関係ない。自分で選べるものでもないしね」
要は「神様が決めたこと」と割り切れることは、この文化圏の強みではないか。そういった話を拙著「メッシと滅私」でも記した。
「類似型」と比較したザック・ジャパン
前置きが長くなった。筆者がここで比較の対象として引用したいのが……韓国だ。世界の華やかな国との比較だとよかったかもしれないが、じつは同じ東アジア圏との比較は「個か組織か」という観点から見てかなり有益だ。こことの比較でしか見えないザック・ジャパンが存在する。
先日、スポーツナビでも記したが、韓国も日本と同じく、「組織をもって世界の個に挑む」というテーマを掲げた大会だった。昨年6月末に就任したホン・ミョンボ自ら「最高の組織をつくって大会に臨む」と宣言していた。
ただしその方法論は対照的だった。日本が4年間培ってきた攻撃力をベースにした「理想主義」なら、ホン・ミョンボのチームは守備ベースの「現実主義」。お家騒動によりホンが4年間で3人めの代表監督となった。時間的制約のあるなか、ロンドン五輪でも成果を出した守備組織をベースるにするのは致し方なない面もあった。
しかし、そのサッカーは第2戦チュニジア戦の26分に破壊されてしまった。後方からのロングパスにアルジェリア1トップのスリマニが走りこむと、アンダー世代からのCBコンビ、キム・ヨンクォンとホン・ジョンホがぶっちぎられ、GKチョン・ソンリョンも軽く左足であしらわれた。組織の核が打ちのめされ、近代IT国家のチームはサーバーダウンという状態になった。
ここから先が、先日の原稿で書ききれなかったところだ。
韓国は直後に2失点目を喫する。チームは応急処置を必要とした。前半に早々とセンターバックを入れ替えることがチームにより大きな動揺を与えるのなら、守備のために1トップを替えるという手もあった。
今季、数試合にしか出場できず、「えこひいき」の大批判の下に招集されたパク・チュヨンにボールが収まらず、結局は2試合を通じシュートわずか1本に終わっていたのだ。ホン・ミョンボのチームも当然、フィールドプレーヤー10人がコンパクトなポジションを取ることを志しており、前線に収めどころを作ることで、守備を落ち着かせるという判断もあった。
しかしホンは、ロンドン五輪のオーバーエイジ選手でもあったパクにこだわった。組織にこだわるあまり、1トップの交代を57分まで渋った。結局ここで大会初投入となったキム・シヌクが196センチの高さからの「個」を発揮し、攻撃でいい形を作ったが時すでに遅しだった。
陳腐な「ストライカー不足」という話をしたいのではない。日本・韓国ともに結局は1トップが定まらなかった。前回の原稿でも書いた通り、ザック・ジャパンにとって1トップは「個」ではなく、「誰か」であり続けた。
ここまでの今大会を観るに、これが結果的には間違った判断だったのだ。
FWの決定力の有無について書き始めるとただでさえ長い原稿が長くなる。ここで強調したいのは「個」の力のあるフィニッシャーがまず「どう点を取るか」が存在し、そこに周囲の選手が合わせて個の力を発揮するチームがインパクトを残しているということだ。
ベンゼマ=フランス。ロッベン=オランダ。シャキリ=スイス。メッシ=アルゼンチン。ネイマール=ブラジル。ミュラー=ドイツ。メッシとネイマールは厳密には中盤のポジションに入るため、やや例外的か。ゲームメーカータイプのハメス・ロドリゲスがゴールを量産するコロンビアは明らかな例外だ。
「そりゃ日本にそういう選手がいないからだ」という点は今後通用していくだろうか。
日本と同じく「先中盤 後FW」の方法を探ったスペインの栄華が終焉を迎えた点は、イデオロギーの拠り所を失ったようなもの。前回も書いた通り、ギリシャ戦後に本田圭佑が語った「アイデア不足」とは、前線の選手に本田、香川らが合わせるオプションが不足したためだった。
この前線の猛烈な「個」を探す作業について、日韓は対照的な道のりを歩んだ。
韓国はホン・ミョンボの就任当初から「1トップ探し」が大きなテーマだった。2013年7月、東アジアカップで迎えた初陣(オーストラリア戦)から4試合でわずか1ゴールという状況が続いた。
5戦目のハイチとの親善試合(9月6日)でようやく4-1の大勝を挙げるが、その後のクロアチア(9月10日)、ブラジル(10月12日)との対戦では再び2試合で1ゴールと沈黙。この間、常にメディアは「1トップの得点力不足」を指摘し続けた。特に就任から4試合は毎試合1トップの先発メンバーが入れ替わるような状況だった。この間、後にブラジルで好プレーを見せる196センチのキム・シヌクも試したが「チーム全体が無意識にロングボールを蹴ってしまう」(7月28日就任3戦目の日本戦後)という繊細な悩みを口にするほどに1トップの人選にこだわった。
一方、ザック・ジャパンはじつは2013年のほとんどの時期、1トップがゴールを決めることはなかった。2013年3月、カナダとのテストマッチでマイク・ハーフフナーが決めた。以降、7月の東アジアカップで柿谷曜一郎と大迫勇也がゴールを決めたものの、メンバーはすべて国内組だったため、厳密なフル代表ではなかったと見ると……11月16日の欧州遠征オランダ戦での大迫のゴールまで待たなければならない。
この間、夏のコンフェデからウルグアイ戦(8月14日@宮城)に続く「大量失点」から、秋のセルビア、ベラルーシ戦の敗戦という苦境もあったが、いったい誰が「1トップがゴールを決めていない」という声を挙げただろう。もちろん筆者も指摘できなかったのだが。
前線に「個」を見つけようとして、結局見つからず、最後は「組織」か「個」かで迷いを見せてしまった韓国。大会1年前からすでに別のことを志していた日本。ザッケローニの「メンバー固定」がさんざん批判されながら、「1トップの未固定」は見逃されてしまった。ザッケローニとしては就任初期から重用した前田遼一の不調は頭の痛いところだったか。個人的には2013年11月のオランダ戦で劣勢の状況のなか、突如ゴールを生み出した大迫勇也を絶対的存在に据えるべきだったと見ている。本大会では「序列1位」には見えたが。どうせ固定するなら、ここを固定しろよと。ヨーロッパの強豪を相手に、事実上のアウェーで、決して流れのよくない時間帯に挙げたゴールは価値のあるものだった。「こいつはやりおる」と強く感じた。
いずれにせよ東アジア勢は結局どちらも世界に大きく取り残される結果しか残せなかった。いっぽうで「先フィニッシャー 後中盤」を実現してきたチームがここまで結果を残している点は、大いに頭を悩ませるべき点だ。
「理想」からの足し引きこそ「現実」
はっきり言って陳腐な表現になるが、日韓の姿とスペインの敗退、そして大会でここまでインパクトを残すチームの姿を観るに、こういった点を感じる。
「しっかりとした個の存在する組織こそ最強」
当たり前すぎる話だ。
実際に過去のワールドカップの全優勝国に該当するキリスト教圏の国々はこれを兼ね備えていたということだろう。本田圭佑が主張し続けた「攻撃か守備か」という問いの正解が「内容の伴う勝利こそ最高」という点と同じだ。どちらかを選ぶのではなく、両方が揃っていることこそベストだ。
キリスト教圏ではない日本は、ここに近づくための足し引きをする必要がある。
同じように「個」を求めていくのか。これは少し難しいと感じる。今大会、ヨーロッパのトップチームに選手たちが口々に個の力を発揮できなかった点を口にした。それだけではない。日本社会の全体的な文化的な背景からこれが難しいと感じる。良し悪しを別にして印象的なニュースがあった。
大会の結果は惨敗だったにもかかわらず、成田空港に1000人のファンが集まり、選手を大歓迎したという。
もし仮に、「チームに期待した自分を裏切られた」と感じたのなら、怒ったり、冷淡な態度を見せるという表現方法もある。しかしそうはなからなかった。重ね良し悪しは別にして、これが日本での実直な反応だ。一方、韓国は30日に帰国したチームについて「迎えるファンはほとんどおらず、たまたま近い時間のフライトに乗った乗客やキャビンアテンダントが興味を示した程度」(現地メディア)。一部の過激ファンは、「これででも舐めとけ」と選手の足下に飴をばらまき、「韓国サッカーは死んだ」との横断幕を掲げ、抗議したという。同じ東アジアの韓国と比べても大きな違いがあった。
仮定をもうひとつ。
ではもしこの先、日本にヨーロッパ・南米と同じように「個」と「組織」が両立する時代が来たとしたら……
今度は「体格差」という壁にぶち当たる。サッカーがボディコンタクトのある種目である以上、この差が生む力の差からは逃れられない。ボクシングや柔道が厳密に体重別で勝敗を決めるのも、ボディコンタクトでは体格差がいかんともしがたいからだ。
もっとも、そんな時代が来るかも来ないかも分からない。
だから次の監督下でできることはやはり「あちら(=ヨーロッパ・南米)の知らない組織を探る」ことだ。もしアギーレが来たのなら、徹底的に日本とメキシコの「個」の考え方が違うことを訴えながら、チームの行く末を見守ることだ。ゴール決定力の議論は別にして、少なくとも前線にもしっかりとした「個」を置く(育てる、据える)オプションは置くこともチェックしていくべき。例えアギレにならなくともこれは同じことだ。
それと同時に、そろそろファンの方から「どんなサッカーが見たいか」を示しませんか? それはその時の監督が決めること? 技術委員会が決めること? 違うでしょう。ファンがどういうサッカーを見たいかを定め、監督以下選手もそれに応えるベクトルだって存在すべき。いつまでも「日本サッカーとは何か」を探すのは惜しい感じがする。いっちょ、世論調査でも実施すべきか。ファンの側も「個」を持つ「組織」に、ということで。