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昭和南海地震で支援活動をしたイギリス連邦占領軍と「津波防災の日」

饒村曜気象予報士
東南海(提供:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

イギリス連邦占領軍

 終戦後の日本を占領統治したのはアメリカ軍単独というイメージがあります。

 しかし、終戦後に占領統治していた連合軍は、アメリカ軍が約75パーセントの12万人と一番多いのですが、イギリス連邦占領軍(BCOF:British Commonwealth Occupation Force)が約25パーセントの4万人もいました。

 イギリス連邦軍は、イギリスに加え、イギリス領インド軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍の各軍隊からなり、連合国間の取り決めで、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)のもとにありました。

 そして、中国地方と四国地方の占領政策を中心的に行い、東京都と神奈川県など首都圏の占領政策を補助的に行っていました。

 イギリス連邦占領軍の司令部は広島県呉市に、海軍は呉軍港、空軍は山口県の岩国基地や防府基地が拠点でした。

 ただ、イギリスは、イギリス本土が第二次世界大戦で荒廃したことに加え、日本に占領されていたマレー半島やビルマ、香港などの植民地の主権回復や、独立運動の抑制に多くの兵力が必要でした。

 このため、日本進駐は終戦半年後の昭和21年(1946年)2月であり、日本の武装解除が進み、治安が安定したことから、昭和21年(1946年)末からは順次主力部隊が日本から撤退しています。

 このため、イギリス連邦占領軍が日本を占領統治した印象が薄いのです。

 しかし、昭和21年(1946年)12月21日に発生した昭和南海地震は、このイギリス連邦占領軍が担当していた四国や中国での大災害でした。

 このため、イギリス連邦占領軍が、神戸、和歌山、高知、徳島などアメリカ軍の軍政府チームとともに救援活動を行ったのですが、真の意味での国際的な支援でした。

 イギリス連邦占領軍は、占領者の立場から、被災者を支援する保護者の面も持っていたのです。

GHQが徳島の被害記録 米大学で昭和南海地震報告書発見

 1946年12月21日に起きた昭和南海地震で、当時日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)が徳島の被害状況などを記録した内部資料が、米国の大学で見つかった。

 当時はGHQの軍政部が沖縄以外の各都道府県に配置されており、今回見つかった資料は徳島軍政部と香川軍政部から上部機関に送ったとみられる2種類の報告書。日付はそれぞれ47年1月4日付と同6日付。

 香川軍政部の報告書には、英連邦占領軍が被災者支援のため、地震5日後の12月26日から毛布や衣類を送り始め、その後列車で徳島と高知に移送した経緯が書かれている。

 日米の安全保障や防災政策について研究する米国出身の政治学者ロバート・エルドリッジさん(49)=兵庫県川西市=が今年9月、米ノースカロライナ州のデューク大で資料調査を行った際に見つけた。同大にはGHQの元幹部が所有する文書を寄贈していた。

 エルドリッジさんは「東日本大震災では米軍が救援や復興支援活動を行った『トモダチ作戦』が注目されたが、71年前にも同様の支援が行われていたことが感慨深い」と話している。

出典:徳島新聞(平成29年(2017年)12月21日)

昭和南海地震

 昭和21年(1946年)12月21日の南海地震では、震源地が紀伊半島沖で、三重県から高知県にかけて4~6メートルの津波が押し寄せました。

 また、南海地震により地盤沈下を起こした高知市周辺では15平方キロの田んぼが海面下に没しました。

 このため、中部地方から西日本を中心に、死者・行方不明者1464名、家屋全壊1万1506棟、半壊2万1972棟、流出2109棟、焼失2602棟などの大きな被害が発生しました。

 この被害の概要は、中央気象台(現在の気象庁)が昭和22年(1947年)に発行した「南海道大地震調査概報」によるものですが、戦後の混乱期でもあり、資料によって多少の差はあります。

 府県別死者数を見ると、イギリス連邦占領軍が担当している府県が多く、全体の3分の2を占めています(表)。

表 昭和南海地震による府県別死者・行方不明者数
表 昭和南海地震による府県別死者・行方不明者数

南海地震と稲むらの火

 嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した安政南海地震のとき、紀州(和歌山)広村の浜口儀兵衛が稲むらに火をつけ、多くの人を救っています。

 この話は、師範学校の英語の教科書として使われた小泉八雲の「A Living God」や、尋常小学校国語読本の「稲むらの火」にとりあげられました。

 その結果として、戦前は、地震が起きたら津波がくるのでより高い所へ逃げるという防災教育が徹底して行われていました。

 しかし、戦後の教育改革で、「稲むらの火」を使った教育がなくなり、そのことが平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災における津波被害拡大につながったのではといわれています。

 浜口儀兵衛は、稲むらに火をつけて人々を救っただけでなく、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。

 4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。

 学問好きの浜口儀兵衛は、貧しくとも勉学に励んでいた勝海舟に資金援助を行っており、福井藩主の松平春嶽と知り合うきっかけを作ったと言われています。

 のちに、勝海舟が神戸に海軍総錬所と海軍塾を作って幕末から明治初期に活躍する若い人材を育成したとき、勝海舟は弟子の坂本龍馬を福井に派遣して福井藩から多額の資金を借りていますので、浜口儀兵衛は幕末のキーマンの一人といえます。

津波防災の日

 昭和南海地震の発生は、安政南海地震から92年後のことです。

 地震が発生してから約30分後に、高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。

 このように、「稲むらの火」は、津波が襲った時の対応、津波被害後の対策など現在も生きている教訓が多数あります。

 安政南海地震が発生した11月5日は、単に津波被害を受けた日ではなく、津波に立ち向かってわずかでも成果を出した日ということから、11月5日が「津波防災の日」になっています。

 ただ、「津波防災の日」については、最初から多くの人に認知されているとは言い難い現状がありました。

 気象予報士の森田正光さんは、このことを憂い、テレビ等で活躍する気象予報士等に呼びかけ、津波防災イベントを毎年開催しています。

 東日本大震災が発生し、津波防災の日が制定された平成23年(2011年)からの開催ですので、令和元年(2019年)11月15日に開催された津波防災イベントは、第9回ということになります。

表の出典:中央気象台(昭和22年(1947年))、南海道大地震調査概報。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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