【光る君へ】紫式部も例外ではなかった!? 性に奔放だった平安時代の人々
大河ドラマ「光る君へ」の見どころの一つは、藤原道長と「まひろ(紫式部)」との恋愛だろう。むろん、それが史実であるか否か問題はあるが、興味を引くところである。ところで、平安時代の人々は、性に奔放だったといわれているが、その点について考えてみよう。
2年前の4月1日に民法が改正され、それまで男性は18歳、女性は16歳で結婚することができたが、女性に限り18歳に引き上げられた。同時に、成年の年齢が18歳に引き下げられたこともあり、親の同意がなくても結婚できることになったのである。
古代の場合は、どうだったのだろうか。「戸令」によると、男性は15歳、女性は13歳と規定されている。しかし、現代のように婚姻届が必要なわけではなく、厳密に運用されていなかったので、一つの目安ということになろう。
実際にはこれより早く結婚するケースもあれば、20代半ばということもあった。道長の妻の倫子は、2歳年上の24歳だった。当時、年上の妻が珍しくなかったのである。
結婚のアプローチについては、男性が求愛の手紙を女性の女房や乳母に渡すのが通常だった。その後、和歌のやり取りを行うが、男性の手紙は母や女房が代作することもあったという。
結婚の決定権を持ったのは、父親である。もっとも、娘が誰と結婚するかによって、その後の地位が左右されることもあるのだから当然だろう。つまり、政略結婚である。
ところで、平安時代の女性は性に奔放であり、紫式部もその可能性があったとされている。こちら。和泉式部に至ると、藤原道長から「浮かれ女」(浮気性の女性)とまでいわれた。紫式部も和泉式部の恋文や和歌を高く評価しつつも、その男性遍歴については手厳しい評価を与えている。
それは和泉式部に限ったことではなく、藤原兼家の妻(道綱の母)も恋愛遍歴があったことを『蜻蛉日記』の冒頭部分に記しているほどである。紫式部が敬愛していた赤染衛門の夫は大江匡衡であり、その仲睦まじさは有名だったが、それ以前は大江為基、源時敍らとの恋愛遍歴があった。
平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』には、「女の盛りなるは十四五六歳、廿三四とか」と書かれている。おおむね、この辺りが女性の結婚適齢期と考えられていたのだろうか。とはいえ、ここまで挙げた例は著名な女性のものばかりで、実際には個人差があったと考えるべきだろう。