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北条氏政が無能だったので、豊臣秀吉に負けたのか。「汁掛け飯」と「小田原評定」の話

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに豊臣秀吉が小田原城を落とし、関東の盟主だった北条一族は事実上滅亡した。

 ところで、北条氏政については、さまざまな逸話が残っており、「汁掛け飯」と「小田原評定」は特に有名である。そうした点にも触れながら、北条氏が敗れた理由を考えてみよう。

 秀吉が北条氏を討とうとした理由は、天正16年(1588)の聚楽第行幸の際、北条氏政・氏直父子が上洛しなかったことだった。その直後、北条氏規が上洛したので、秀吉の機嫌は直った。

 翌年、秀吉は懸案事項だった真田と北条の沼田領の裁定を行い、同時に氏政が天正17年(1589)12月に上洛することになった。しかし、氏政は天正18年(1590)春か夏に時期を変更したいと申し出たので、秀吉は激怒した。

 そのような状況下で、天正17年(1589)に北条氏邦の家臣の猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を奪取したので、秀吉は完全にブチ切れた。秀吉は北条方に弁明すべく上洛を求めたが、氏直は国替えなどの噂があるので、処分されないことを条件として示した。

 それまで、秀吉は繰り返し北条氏に上洛を求めたが、この回答から臣従する意思がないと判断し、小田原征伐を決めたのである。もはや、北条氏には受けて立つより、ほかの選択肢がなかったのである。

 ところで、北条氏政については、これまで無能とのレッテルが貼られてきた。その一つが「汁掛け飯」の逸話である。あるとき、氏政が飯に汁を掛けたが、汁が少なかったので、もう一度掛けた。

 それを見た父の氏康は、「毎日、飯に汁を掛けて食べるのに、その分量もきちんと量れんとは、北条氏もわしの代でおしまいだ」と嘆息したという。

 つまり、汁と飯のバランスさえ満足に量れないような者が、国を支配することなどできないということである。むろん、この話は根拠がなく、後世に創作されたものである。

 また、秀吉との開戦が迫った北条氏の家中では、対策を協議するため軍議が催された。いわゆる「小田原評定」である。小田原評定は、秀吉の宣戦布告から約1ヵ月にわたり催されたという。

 家臣の松田憲秀が籠城戦を主張する一方で、北条氏邦は打って出ることを進言した。ところが、結論がなかなか出ず、それゆえ小田原評定と言えば、時間ばかりが過ぎて、結論が出ない会議の代名詞となった。こちらも史実とはみなし難く、のちになって創作された話に過ぎない。

 結局、秀吉が小田原征伐を決意したのは、北条氏の判断ミスが原因だった。いかに氏政の身に危険が及ぼうとも、上洛すべきだったのかもしれない。北条氏がのらりくらりとかわしたことが、秀吉の逆鱗に触れたのである。その結果、北条氏には秀吉と戦うという道しか残らなかったのである。

 ドラマの中で、氏政が「なぜ籠城したのか?」と家康に問われたとき、瀬名の「慈愛の国を作る」という趣旨に賛同したというが、もちろんフィクションである。そんなに暢気な戦国大名なんて、どこを探してもいないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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