「孤軍奮闘の大エース」近江・山田に見た高校野球の原風景
今センバツは大阪桐蔭が強すぎて、ファンはもちろん、取材する側も拍子抜けしてしまった。大会が終わって一週間、話題の中心は準優勝の近江(滋賀)に移った。「ひこにゃん騒動?」はお愛嬌として、延長2試合を含む4試合連続完投勝利のエース・山田陽翔(3年=主将)の「酷使」については、否定的な意見を多く目にした。
初戦勝利後「体のケア」を口にした山田
開幕前日に京都国際のコロナ感染による出場辞退でチャンスを得た近江は、満足な準備もできないまま3日後に長崎日大との初戦を迎えた。野手陣が攻守に精彩を欠く中、昨夏甲子園4強を経験している山田は別格で、タイブレークで自ら決勝打を放ち、13回を投げ切って死闘を制した。「故障をするとチームに迷惑がかかる。しっかり体のケアをしている」と、ヒジ痛で投げられずにチームが苦労した昨秋に思いが及んだ。
満身創痍で11回投げ抜く
3試合連続完投勝利後の浦和学院(埼玉)との準決勝は、両校が正反対の投手起用をし、最終的にそれが勝敗を分けた。エース左腕・宮城誇南(埼玉)の状態を見極め「控え投手で戦うことを決めていた」(森大監督=31)浦和学院に対し、近江は山田が先発。接戦となった中盤に山田が左足くるぶしに死球を受け、満身創痍でマウンドに上がってからは、その孤軍奮闘ぶりが一層、鮮明になった。足を引きずりながら懸命に投げるエース。それを必死で支えるバック。最後は山田の球を受け続けた捕手の大橋大翔(3年)がサヨナラ3ランを放って、11回に及ぶ熱戦に終止符を打った。
甲子園の高校野球の原風景を見た
山田の痛々しくも闘志あふれる姿にスタンドのファンが心を打たれ、近江の攻撃時には手拍子も沸き起こっていたし、試合後はしばらく拍手が鳴りやまなかった。これこそ甲子園が待ち望んでいた高校野球の素晴らしさ、尊さであると実感した。両アルプスの応援団以外、大部分のファンは、純粋に高校野球を楽しみたいと思って甲子園へ足を運んでいる。ファンが魅了されるような試合や選手は、決して多くはない。スタンドのファンが皆無の昨夏だったらありえない光景。まさに昭和の時代から受け継がれてきた甲子園の高校野球の原風景を、久しぶりに見た思いがした。
山田は決勝でも先発した
しかし、これを美談で終わらせると「時代錯誤」と言われる。タイブレークや投手の球数制限など、高野連は選手の健康管理対策を必死で模索してきた。こうした甲子園の良さが喪失されることを承知の上で、である。それでもやはり、ファンは山田のようなヒーローを待っていた。多賀章仁監督(62)は、山田が足を冷やすためベンチ裏に下がって手当てを受ける姿を目の当たりにし、「このまま投げさせていいものか。私が決断しなければならない」と自問自答していた。それをさせなかったのが山田の気迫だった。そして170球を投げ抜き、翌日、球数制限の懸念があったにもかかわらず、山田は大阪桐蔭との決勝でも先発した。これはさすがに「やりすぎか」と思った。
新しい時代の監督と選手の在り方
結果は、読者もご存じのとおり。3回、松尾汐恩(3年)に本塁打を浴びた直後、山田はベンチの多賀監督にゼスチャーで交代を申し出た。試合後、多賀監督は「先発をさせたのは間違いだった」と自らを責めた。しかし「故障しない体のケア」を肝に銘じている山田は、早い段階から控えの星野世那(3年)に準備を促した上で、勇気を振り絞って交代を要望している。昭和の時代なら、それこそつぶれてでも投げ続けていただろう。監督の意向が全てだった一方通行の時代は終わり、選手と対等に向かい合う。新しい時代にふさわしい、監督と選手の在り方がそこにはあった。起用に対して肯定はできないが、交代の場面は昭和の原風景ではありえなかった光景でもある。
多賀監督は「投手分業」のパイオニア
多賀監督が満身創痍の山田を酷使したことについて、「時代錯誤」と断ずる論調も多い中、キャリアの長いライターは、多賀監督が実は「投手分業制」を積極的に推進してきた指導者であることに言及していた。21年前の夏、多賀監督は、右腕速球派の竹内和也(元西武)、左腕でカーブが武器の島脇信也(元オリックス)、そして横手投げ右腕の清水信之介(東海大)の3投手を鮮やかに使い分け、近江を準優勝に導いた。「三本の矢」と称されたスタイルは斬新で、一人のエースに頼るチームが多かった当時の高校球界に、新風を吹き込んだ。多賀監督こそ、投手分業のパイオニア的存在である。
これまでの近江は複数投手で好成績
多彩な投手起用や勝ちパターンの継投策は「多賀流」とも言うべき甲子園戦法で、近江の伝統となっていった。
その後も、4年前の夏に林優樹(西濃運輸)を軸にした4投手で智弁和歌山を破るなどして8強。昨夏は先発・山田~抑え・岩佐直哉(龍谷大)の必勝パターンで大阪桐蔭を倒している(最終成績は4強)。采配を非難することは簡単だが、それは多賀監督の33年に及ぶキャリアを断片的にしかとらえていない意見であることもまた、指摘しておきたい。
突然の出場で二番手調整できず
多賀監督の肩を持つとすれば、これだけのキャリアの中で、山田ほどのずば抜けた存在に初めて出会ったことが挙げられる。それは、山田がマウンドにいなかった昨秋や大阪桐蔭との決勝で証明されているし、突然の甲子園出場もまた、山田の負担を重くした。秋以降に頭角を現してきた3年生大型右腕を二番手で計算していたが、足の故障があって調整しきれていなかったようだ。選考会で出場が決まっていれば、異なった投手陣で臨めた可能性がある。
夏に万全な姿の山田をファンは待っている
とはいえ、甲子園にあれだけの感動をもたらし、甲子園の良き時代をよみがえらせてくれた山田と近江ナインには感謝しかない。このあと投手陣を再整備し、山田が今春に劣らぬ姿で夏の甲子園に戻ってきた時、全てが救われる。ファンはそれを祈っているはずだ。