「犯罪のリアリティ」と「映画・ドラマ・小説」の深い関係 犯罪防止が学べる良質な作品たち
被害のリアリティ
かつてアイスランドの道路を走っていたら、道沿いに奇妙なオブジェが見えたことがあった。近づいてみると、実際の事故で大破した2台の車だった(上の写真)。
日本では、ともすれば事故や事件のリアリティを隠しがちになるが、案内してくれたアイスランド人は、この啓発手法を誇らしげに語っていた。
確かに、危険なことを危険だと意識できないことが最も危険である。それを意識するには、リアリティを直視することから始めなければならないと思うが、どうだろうか。
そのためなのか、海外の映画やドラマにはリアリティの高い作品が多い。
例えば、1991年のアカデミー賞主要5部門を独占した『羊たちの沈黙』はその代表格だ。それもそのはず、原作者のトマス・ハリス氏は、バージニア州クワンティコにあるFBIアカデミーの行動科学課を取材に訪れ、プロファイリングを学んでいた。そのため、犯行手口は実際にあったものばかりである。
FBIアカデミーも、映画の撮影に積極的に協力し、実際の建物や訓練場が、映画のセットとして使用された。今でも、行動科学課の会議室には映画のポスターが展示され、邪悪心研究博物館にはハンニバル・レクター博士の等身大人形が置かれている。
クリント・イーストウッド監督も、リアリティを徹底的に追求することで有名だ。
とりわけ、テロの現実を伝える作品では、事件を丁寧に検証している。例えば、フランスの「タリス銃乱射事件」を描いた『15時17分、パリ行き』や、アメリカの「アトランタオリンピック爆弾テロ」を描いた『リチャード・ジュエル』は、犯罪学の教材にしたい映画である。
対照的に、日本の映画やドラマにはリアリティの高い作品が少ない。
特に、過剰な演技で、見るからに犯罪者と分かる人物が登場する作品には閉口する。サイコパスだと強調したいのだろうが、実際のサイコパスは真逆の印象を与える人物、つまり人当たりがよく、魅力的である。
これも、「犯罪原因論」が幅を利かせていることの弊害だ。
ガードレールのある道で子どもが誘拐される映画もあった。しかし、これまでに起こった誘拐事件では、ガードレールのない道(=入りやすい場所)が選ばれている。
「犯罪機会論」を知らないと、犯罪が起きにくい場所で撮影してしまうことになる。
メタファーの説得力
海外の映画やドラマには、メタファー(たとえ)の力を借りてリアリティを高める作品も多い。その代表格が、ディストピア世界のサバイバルを描いたテレビドラマ『ウォーキング・デッド』だ。
このドラマには社会学のすべてが詰まっている。家族、仲間、集団、地縁、交換、産業、都市、分業、役割、情報、差別、LG、偏見、成長、喪失、DV、育児、環境、障害、経営、犯罪、教育、宗教、疫病、秩序、紛争などが、ドラマのモチーフとして盛り込まれている。
とりわけ、コミュニティの形成と拡大の描き方が秀逸である。
狩猟社会から農耕社会、そして工業社会へと続く人間社会の発展プロセスを、『ウォーキング・デッド』の中で確認することができる。もちろん、ゾンビは登場するが、それは原始社会における猛獣のメタファーにすぎない。
猛獣(ゾンビ)に囲まれた環境下で、試行錯誤するコミュニティの生きざまこそ、このドラマのメインテーマだ。
「コミュニティ」という言葉の語源は、「共に守る」を意味するラテン語だとする説がある。作品では、コミュニティが持つダークサイドとブライトサイドというアンビバレント(二律背反的)なリアリティがダイナミックに描かれている。
たった一人で始まった『ウォーキング・デッド』の物語は、やがて仲間ができ、集団の物語になっていく。舞台も、野営地から村落へ、村落から都市へ、そして都市から都市同盟へと広がっていく。そのダイナミックな展開を見ていて、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』を思い出した。
著者によると、私たちホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人など、ほかの種族との生存競争に勝ち残ったのは、フィクション(作り話)を生み出し、それをみんなが信じたからだという。つまり、私たちが他を圧倒できたのは、強力なチームワークのおかげであり、それを可能にしたのが、私たちに固有の集合的想像力(共通信念)というわけだ。
フィクション(ルールやミッションなど)の共有は、『ウォーキング・デッド』でも、集団が生き残るための重要な要素になっている。
『ウォーキング・デッド』では、日本の城のように周囲に堀を巡らすのではなく、高い壁を築くことで、ゾンビの侵入を防ごうとする。「城壁都市」の芽生えである。
海外に行くと、街の境界を一周する城壁が今も高くそびえていることに驚かされる。かつて民族紛争が絶えず、地図が次々に塗り替えられていた海外では、異民族による奇襲侵略を防ぐためには、人々が一カ所に集まり、街全体を壁で囲むことが有効だったのである。
しかし、こうした城壁都市づくりの経験は、日本では皆無である。四方の海が城壁の役割を演じ、しかも台風が侵入を一層困難にしていたからだ。実際、日本本土は建国以来一度も異民族に侵略されたことがない。それどころか、戦国時代でさえ、村人や町人は弁当持参で合戦を見物していたという。
日本人がリスク・マネジメントに不得手なのは、こうしたラッキーな歴史に原因がある。
『ウォーキング・デッド』へと受け継がれている「城壁都市のDNA」が、海外では「犯罪機会論」の普及を強力に推し進めてきた。しかし、残念ながら日本では、城壁都市の未経験が災いして、「犯罪機会論」の普及が阻害されている。
防犯対策において、公園のゾーニングが中途半端なのも、施設のゾーン・ディフェンスが低調なのも、城壁都市の未経験が原因である。
犯罪原因論から犯罪機会論へ
もっとも日本にも、「犯罪機会論」の立場から違和感なく読める小説もなくはない。先月出版された未須本有生氏の『天空の密室』も、その一つだ。犯罪機会の有無を丁寧に詳述していて、緻密なミステリー作家エラリー・クイーン氏を彷彿とさせる。
物語で重要な場所となる「屋上」は、長崎男児誘拐殺人事件(2003年)では、性犯罪と殺害の現場となった(下の写真)。事件当時、その目撃情報は皆無だった。「犯罪機会論」のキーワード「(誰からも)見えにくい場所」が、屋上に当てはまるだからだ。
また、三重県内で女児にわいせつ行為を繰り返した男は、犯行場所を「女の子が1人で歩いていて、街が密室になる状況」と表現していた(朝日新聞2006年2月8日)。「密室」とは「(誰からも)見えにくい場所」を意味する。
『天空の密室』には、リスク・マネジメントの意識が低い日本と比較して、「他の先進国は『安全に飛ぶにはどうすべきか』、『リスクとどう向き合い、どう回避するか』を拠り所としており、根本的に姿勢が異なる」というくだりがある。いかにも、その通りだ。日本人の多くは、リスク・マネジメントよりも、クライシス・マネジメントを優先的に考えている。
「リスク・マネジメントとクライシス・マネジメントの違い」についても、こちらの記事を参照いただきたい。
たかがフィクションと侮るなかれ。映画や小説も、犯罪学や社会学のエッセンスを広めるメディアだ。ときには、学術書よりも、雄弁に語ってくれる。
「実践なき理論は無力であり、理論なき実践は暴力である」とは、自作の座右の銘だが、映画や小説も、ここでいう「実践」の一つなのかもしれない。