なぜ平清盛は嫌われたのか? 清盛が行った鬼畜のような所業3選
大河ドラマ「どうする家康」で本多正信を好演する松山ケンイチさんは、大河ドラマ「平清盛」で主役の清盛を演じていた。実は、平清盛が鬼畜のような所業を行っているので、うち3つを取り上げることにしよう、
◎謀反を計画した西光に激しい拷問をする
安元3年(1177)、鹿ケ谷(京都市左京区)で後白河法皇の近臣の藤原成親、藤原成経、西光、俊寛らが中心となり、「打倒平家」の謀議を行った。
しかし、謀議の内容は、出席していた多田行綱が平清盛に密告したので、ただちに清盛は首謀者の捕縛を命じた。捕縛した面々には流罪などの刑を科したが、中でも反抗的な態度を示したのが西光だった。
西光は清盛の前に引きずりされると、「平家に逆らった者はこうなるのだ」と顔を踏みつけられた。しかし、西光は怯むことなく、卑しい身分の清盛が太政大臣になったことを嘲笑した。
すると清盛は怒り狂い、配下の者に拷問するよう命じた。西光は事件に関する自白を強要されたうえ、口を引き裂かれ、五条西朱雀で首を斬られるという非業の死を迎えたのである。
◎禿を京都市中に放ってスパイ活動
清盛が栄耀栄華を極めると、京都市中におかっぱ頭の「禿」という子供を放ち、平家への不満を述べる者を発見すると、すぐに報告させたという。
「禿」の報告を受けた平家方の武者は、不満を述べた者を捕縛し、私財なども押収した。恐れをなした京都市中の人々は、「禿」を避けるようになった。
このシステムは、旧ソ連のKGB、旧東ドイツのシュタージ、ナチスドイツのゲシュタポと酷似している。この話は『平家物語』の載せる話で、ほかの史料には見られないが、現実味のある話である。
◎高倉天皇に安徳天皇への譲位を迫る
平清盛は権力基盤を強固なものにすべく、娘の徳子を高倉天皇の妻として送り込んだ。治承2年(1178)、高倉天皇と徳子の間に誕生したのが安徳天皇である。その2年後、高倉天皇は安徳天皇に譲位して、自らは上皇となって院政を行うことになった。
しかし、実際には清盛が外祖父として専横を振るった。この年、後白河法皇が清盛に幽閉されたので、高倉上皇はまったくの無力となった。高倉上皇は無念の思いを抱きながら、寿永4年(1185)に亡くなったのである。
保元の乱、平治の乱を勝ち抜き、権力基盤を形成した清盛は、逆らう者を決して許さなかった。同時に、権力をより強固なものにするため、あらゆるあくどい手段も厭わなかった。こんなことをして、人々の支持が得られるわけもなく、清盛の死後には平家は没落し、ついに滅亡したのである。