これまで誤解があった!五大老と五奉行の役割とは?
近年の会社の成果主義では、評価のために職務内容を厳格に定めるようになったという。豊臣秀吉の晩年に誕生した五大老と五奉行の職務や役割は、どのようなものだったのか、紹介することにしよう。
五大老と五奉行の役割については、堀越祐一氏が整理を行った。以下、堀越氏の研究に基づき、五大老、五奉行の役割について考えてみよう。最初は、五大老の職務である。
第一の職務は、文禄・慶長の役後、朝鮮半島から日本軍を引き上げさせることだった。五大老は九州諸大名へ明や朝鮮の追撃を想定した警護の指示をし、朝鮮の日本軍を帰国させるための船の準備を行った。これが五大老の最初の大仕事だったが、臨時的なものに過ぎなかった。
第二の職務は、慶長4年(1599)に勃発した庄内の乱(島津氏の家中騒動)など、謀叛や反乱への対処である。乱に対処したのは、徳川家康だった。この職務も五大老の恒常的な職務ではなく、あくまで突発した事態への対処に過ぎなかった。
第三の職務は、諸大名へ知行地を宛がうことで、こちらが恒常的な職務として重要だった。豊臣秀吉の死後、後継者になった子の秀頼が幼かったため、五大老が職務を代行していたのである。
五大老の発給文書の約6割は、各大名への領地宛行状だった。しかし、五大老が判断して知行地を宛がう権限はなく、あくまで本来の秀頼の職務を代行したに過ぎない点に注意が必要だろう。
次に、五奉行の役割では、第一に主要都市(京都、大坂、堺、長崎)の支配があったが、もっとも重要な職務は豊臣家直轄領(蔵入地)の統括だった。
豊臣家の直轄領のうち、畿内に所在するものは豊臣家直属の家臣や寺社を、地方に所在するものは大名をそれぞれ代官に任命し、五奉行がこれを統括した。五奉行は米を金銀に替えさせたり、蔵米を納入させるよう指示していたのである。
また、諸大名への知行地の給与は、五奉行の主導のもとで行われ、五大老は秀頼の代行として知行宛行状に署名するだけだったと指摘されている。つまり、豊臣政権の運営は、五奉行が中心になって行われていたのである。
堀越氏はそれを豊臣家の「年寄」を自認する五奉行による、「奉行―年寄体制」と呼ぶ。堀越氏の指摘によれば、従来の五大老が格上、五奉行が格下という考え方には再考が迫られる。豊臣政権を実質的に動かしたのは五奉行であり、五大老はその指示に従わざるを得ない面があった。
いかに五大老が数十万石の大名で、多くの軍勢を動員し得るとはいえ、五奉行が豊臣政権の運営に欠かせない存在だったことに注意すべきだろう。
主要参考文献
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)