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”音喜多駿議員の山本太郎氏被災地視察批判騒動”に見る国会議員の資質とは

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
能登半島地震における炊き出し(画像は本文内容からのイメージです)(写真:ロイター/アフロ)

・またも「党派性」「ポジション」からの批判合戦が巻き起こる

 れいわ新選組代表の山本太郎氏が、能登半島地震の被災地に単身視察に行ったことが、大きな批判を浴び、または逆に称賛されているのは既報の通りである。批判の急先鋒とみられる日本維新の会・政調会長である音喜多駿氏に対してもまた賛同・批判が沸き起こっており、本稿執筆時点に至るまでちょっとした騒動・論争になっている。

 激甚なる能登半島地震は地震発生後1週間を経た現在でも、未だ復旧の見通しは立っていない。亡くなった方に哀悼の意をささげるとともに、被害にあわれた方の一刻も早い回復を祈るばかりであるが、くだんの騒動は、永年さまざまなイデオロギー界隈を見聞してきた私にとって、何十回、何百回目の既視感が襲う。

 山本氏の被災地視察について、私は特段意見を持たないが、これを批判する人は政治的に右、擁護する人は政治的に左と、きれいなまでに完全に色分けられている。山本氏の客観的な行動の計量云々というよりも、人々がほぼその党派性に基づいて「のみ」意見を言い合っているのは、今に始まったことではない。

 もし、被災地に行った議員の所属政党がまったく違っていたら。例えばそれが保守的な政党の議員であれば、おそらく真逆のことが起こったはずである。つまり政治的な右が賛同し、政治的な左が批判したかもしれない。このような批判者の党派性に大きく依拠した議論には正直なところあまり建設性は見込めないだろう。


・山本太郎氏批判の急先鋒、音喜多俊議員の理屈は…

2019年参院選挙の応援演説の際の音喜多氏。写真左は永藤英機氏。
2019年参院選挙の応援演説の際の音喜多氏。写真左は永藤英機氏。写真:アフロ

 さて今次騒動・論題提起の中心である音喜多氏は、

「すでに多くの識者から指摘されている通り、山本太郎氏が発信・提案している内容は、既知のものあるいは防災基本方針や防災計画に記載されているものです。 物理的な制約から100%の地域にまで支援が行き届いていないのは事実としても、渋滞を始めとする負担を被災地にかけてまで発信すべき情報であったとは到底いえないものだと断言します。」

 などと1月8日、自身のSNSに投稿した。つまり音喜多氏の意見を要約すると、山本氏が被災地に行った結果、得られた知見は書類に書いてあることと同じであるから意味はない―。というふうに(やや強引にまとめると)なる。繰り返すように私は今次の山本氏の行動について特段の意見を持たないが、仮に私が山本氏の批判者の立場になったとしても、このような理屈を展開するのはいかがなものかと思う。

 書類に記された問題点と、実際に現地に行ってえられた雑感が同じであれば、その雑感に意味はないというのであれば、極論すればジャーナリストや作家は必要がないということになる。もっと進めば、すべての問題点は専門家が話し合って想定した書類の中に凝縮されているのであり、専門家以外の人間にあっては現地を見る必要はなく、データだけを集約して対象法を考えればいいということになる。究極的には、現地に入ってあれこれを見聞するのはその道の専門家だけでよく、総合的な対処法の策定はAIがやればいい、といういささかSFチックな未来像も見えよう。

 いやまて、山本太郎氏は歴とした国会議員であるから、ジャーナリストや作家ではないではないか、という反論があろう。しかし私は、国会議員はジャーナリスト的な感性や作家的資質を兼ね備えていなければならないのではないかと考えている。国会議員の役割は第一義的には立法である。しかしながら、その立法の過程にあっては当然ジャーナリスト的感性や作家的感性が必要ではないか。

 例えば田中角栄はかの有名な『日本列島改造論』を著した。角栄はまず高度成長の晩期にあってもなお劣悪な都市部の住宅問題を説き、その解決法として全国各地に新幹線や高速道路網を築き、過密な大都市部から地方へ人口を移動させることによって、「経済大国ニッポン」にふさわしい生活水準の向上等が成しえるとした。

 列島改造論はさまざまな物議をかもしつつベストセラーになったが、この論は現地に行ったことの無い角栄が机上の空論でぶちあげた頓狂な構想ではない。角栄は新潟の雪深い郡部で生まれ、そこから成りあがってきた。一方で議員になった後は「昭和元禄」と謳われた高度成長時代にあっても、なお東京都部の中産階級でさえ、五人家族が狭いアパートの中で、家具の谷間に肩を寄せ合って暮らす実態をつぶさに見聞してきた。いわば角栄は、農村や郡部の衰退と、大都市部の虚像を両方取材してきたのであり、その体験の迫真性が列島改造論をベストセラーに押し上げ、多くの有権者の心をつかんだのである。

・国会議員の資質に必要な「ジャーナリスト的感性」と「作家的感性」

2020年都知事選挙における山本太郎氏。
2020年都知事選挙における山本太郎氏。写真:アフロ

 こと程左様に、国会議員は永田町で議論をしていればそれで済むだけでは足らない。その議論の背景には、かならずジャーナリスト的感性や作家的感性が必要なのである。国会議員、ジャーナリスト、作家の三者は分離している存在ではなく、特に「国会議員の資質」として良なるのは、そこに鋭敏なジャーナリストや作家的感性が含まれていることが望ましいと私は考えている。だからこそ、ジャーナリストや作家出身の国会議員が、古今東西輩出されているともいえる。

 よって音喜多氏の、「山本氏が被災地に行った結果、得られた知見は書類に書いていることと同じであるから意味はない―。」というふうに読める批判理屈は、返す返すいかがなものであろうか。換言すればそれは身体性の否定である。「自分で見て・聞いて・感じたこと」が仮に既知の書類の中で書かれた問題点と同じであっても、その実際はまるで違っている。結論は同じであっても、その場で体験した空気感こそが体の中に染み付き、それが優良なる提言等に結びつくはずだ。これこそが身体性である。

 より広汎にこの問題を考えれば、すでに世界中で問題とされている社会的、政治的イシューは、すでにどこかの誰かが問題点として論文や書籍の中にまとめられている。よって、仮に熱意のある議員が現地に急遽赴いても、その彼が既知でない、新しい問題点を発見するのは大変難しい。世の中のさまざまな問題は、その解決法も併せて「すでに、どこかの誰かが解説・提案している」ものばかりだからだ。

 だからといって、現地に行ってそれをトレースすることは無意味なことなのか。違う。現地で体験した匂いや、皮膚に感じる言語化できないニュアンスを、それでも言語化するのがジャーナリストであり作家である。そしてこの二者を包摂すべきなのは、ある種理想的な国会議員の資質であろう。

 国会議員は声にならない声を拾い上げる「一隅を照らす」存在でなくてはならぬ。そしてその一隅の声は、総論としては書類の中にあっても、その書類の中の行間に埋没している「何か」であるやも知れず、その埋没した小さき声を、彼ら国会議員の身体に刻み込み縷々立法の背景にするためには、やはり結論がいかに同じであっても、現地に行かねば話にならないのではないか。

 このようなことを加味して山本氏の今次の行動を批判ないし称賛するのは全く自由であるが、

「自分の嫌いな党の議員がやったことだから、無条件に批判(糾弾)する」

 あるいは、

「自分の好きな党の議員がやったことだから、無条件に支持(称賛)する」

 という党派性を抜け出さない限り、この種の騒動や論争には、ほとんど建設性がなく、また意味もないと思う。このような党派的風潮は、到って健全な民主主義社会の形成に際し、その足を不如意に引っ張るだけではないのかと危惧するものである。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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