【戦国こぼれ話】黄金太閤と知られる豊臣秀吉は、子供の頃は薪売りで、「赤貧洗うが如し」という生活だった
京都のかまぼこ業者が豊臣秀吉を祀る豊国神社(京都市東山区)に金粉入りの特製かまぼこを奉納した。秀吉といえば、黄金太閤として知られているが、幼い頃は貧しかった。その一端を示すことにしよう。
■秀吉が貧乏だったことを示す『日本史』の記述
秀吉の出自が判然とせず、物乞いのような生活をしていたことは、誰もが知る事実だった。次に、ルイス・フロイスの『日本史』から、秀吉の出自に関わる記述を抜き出してみよう。
この(羽柴)筑前殿(秀吉)は血統から見ればたいして高貴の出ではなく、家系からも、およそ天下の支配なり統治権を掌握して日本の君主になり得る身には程遠いものがあった(以下略)。
(秀吉が関白就任などを目論んだ指摘のあとで)だが賤しく低い身分から出た羽柴(秀吉)が、このようにして財宝、名誉、現世の栄光において大いなる頂に登れば登るほど、むしろその競争者たちは(日本の慣わしどおり)車輪の脱線が早まるようにと手ぐすねを引いて待っていた。
この人物(関白秀吉)がきわめて陰鬱で下賤な家から身を起こし、わずかの歳月のうちに突如日本最高の名誉と栄位を獲得したことは、途方もない異常事に外ならず、日本人すべてを驚愕させずにはおかなかった。
『日本史』の記述から明らかなように、秀吉が信長の後継者として天下人への階段を駆け上がり、ついに関白の地位に上り詰めたことは、日本人すべてにとって信じがたいことだった。
以上の記述を補うように、『一五八五年の日本年報追加』には、「秀吉には身分がなかったが、幸運があった」と記されている。
■薪売りだった秀吉
このようにフロイスの『日本史』には、示唆に富む記述が見られるのであるが、何より注目されるのは次の一節である。
彼(秀吉)は美濃(尾張が正しい)の国に出て、貧しい百姓の倅として生まれた。若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。彼は今なお、その(当時の)ことを秘密にしておくことができないで、極貧の際には古い蓆以外に身を掩うものとてはなかったと述懐している(ほどである)。
ここでは、明確に秀吉が百姓の子であると記されている。ただ、この百姓という言葉は、純粋に農業を意味するのではない。
農業だけで生活が成り立たず、薪を売って糊口をしのいでおり、生活が厳しいときには古い蓆を身にまとっていたという。服がなかったのである。
■赤貧だった秀吉
秀吉の赤貧というべき生活ぶりは、イエズス会の報告書『一六〇〇年及び一六〇一年の耶蘇会の日本年報』にも詳しく記されている。次に、その記述を見ておこう。
彼(秀吉)はその出自がたいそう賤しく、また生まれた土地はきわめて貧しく衰えていたため、暮らして行くことができず、その生国である尾張の国に住んでいたある金持の農夫の許に雇われて働いていた。このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。
フロイス『日本史』よりも、記述がはるかに具体的である。ここから得られる情報としては、秀吉の住んでいた場所は土地が痩せていたようで、農業には適していなかったことである。そこで、秀吉は富裕な農夫に雇われ、薪を拾い集めて生活を支えたのであった。
■まとめ
秀吉はかなり熱心に作業に従事しており、愚痴一つこぼさなかった。こうした真面目に職務を遂行することが、秀吉が評価される大きなポイントだった。
信長に従って以降、秀吉は職務に忠実であり、それゆえに高い評価を与えられている。少なからず武士身分にあった者とは違い、秀吉には何の後ろ盾もない。
それゆえ、与えられた仕事を黙々とこなす忍耐力は、若い頃から身についていたと考えられる。