樋口尚文の千夜千本 第216夜『辰巳』(小路紘史監督)
狂犬を眺めること、狂犬に紛れること
アン・ハサウェイがプロデュースした『ブルックリンでオペラを』はピーター・ディンクレイジがまさかのハサウェイの夫という役で意表をつくが、小人症のディンクレイジがスクリーンの中心にいてくれるだけですでに退屈な映画ではなくなるのだった。特に映画にあっては表層的な「見た目」は重要だが、同じやくざ者を描いていても、半世紀前に盛り上がった東映の実録やくざ路線には、高倉健や鶴田浩二のような美しく精悍な侠客しか出てこない任侠路線では到底浮かばれない個性的な脇役たちが騒然と暴れまわってマンネリを打破した。『辰巳』も然りで、既成の映画会社が製作する「女子より美しい今どき男子」に占められた青春メロドラマの退屈さを吹き飛ばす個性派の顔、顔、顔にうずめられた力作である。
前作『ケンとカズ』から8年ぶりの小路紘史監督作と聞いて驚いたが、あの作品では今やマイルドな優男ぶりで鳴らす毎熊克哉とカトウシンスケが渾身で悪相に徹していた。そしてこのたびの『辰巳』はもっと大人数の悪相の野郎どもが短い時間のなかでちゃちな小競り合いを演じ続ける、ひたすらそれだけの映画である。だが、その「それだけ」が本作に稀有なる凝集力をもたらし、百余分にわたって観客を引きずり回す。
往年の任侠映画が様式美で成立していたのに対し、実録やくざ路線はかつてなら中心化し得なかったバイプレーヤーたちの悪相が張り出し、予定調和におさまらないずっこけぶりを熱気とともに披露した。旧套の仁義の美学が崩壊した荒涼たる人間関係のなかで、ごつい生存競争に血道をあげるこの癖のあるアウトローたちは、いわば穏健さを装う市民社会が押し隠したパトスをもろ出しにした連中である。そんな自らが封印したエモーショナルなものの噴出を観た観客たちにとって、この跋扈する悪童たちはまさかの身につまされる対象であった。だが、はるかこの悪相映画の系譜を継ぐ『辰巳』のキャラクターたちはそういった不思議な共感の対象にはとどまっていない。
それは深作欣二といえども実録やくざ映画における作り手のまなざしはあくまで此岸にあってどこまでも客観的であったからだ。それゆえに実録やくざ映画にはびこる危険人物たちを遠目に笑ったり、憐れんだりできたのである。しかし小路監督の視点は『ケンとカズ』においてもそうだったが、あくまで彼岸に渡ってしまった連中の渦中に紛れている。したがってそのいつ何が起こるかという緊迫感は半端なく、われわれは手元にある爆弾の導火線に火がついたような状態で、本作の道連れになるのである。その際、先述したように無菌的なシネコン映画ではなかなか拝めない悪相と掟知らずの性格が映画の行方をいよいよわからなくしてくれるのが好ましい。
遠藤雄弥の抑えた殺気をたぎらせつつ粛々とバラシ屋を以て任ずるさま、そして森田想の弾けまくる爆竹のような猪突猛進ぶりはもちろん素晴らしいが、彼らを囲む敵味方のいかれた面々、なかんずくオーストラ・マコンドーの演出家・倉本朋幸が熱演するやくざの暴発不可避の狂犬ぶりも圧倒的だった(2023年11月のオーストラ・マコンドー公演『応答せよ、魂深く』は倉本と本作の小路監督によって上演台本が共同執筆された)。こうした規格外の人物たちのいきいきとした好演によって、近頃何を観ても退屈さを禁じ得ない映画が本来的な挙動不審さをとりもどしている。そして何より嬉しいのは、これだけ物騒で不穏な世界を、かかる創造の場の貴重さを知るスタッフ、キャストが決して無駄にはすまじと大切に、そしてめっぽう機嫌よくとりくんでいる熱気が、作品からふきこぼれていることである。