島耕作はなぜ誤解されるのか? 「成功・昇進・情愛」からの脱却 3作同時リリースの大勝負
3作同時リリースは島耕作 最後の闘い?
今さらだが、島耕作が熱い。講談社は5月23日に『学生 島耕作』『会長 島耕作』の最新刊と、スピンオフ作品である『島耕作のアジア新世紀伝』を3作同時にリリースした。島耕作も、作者の弘兼憲史氏も老いてなお盛んなのか、狂い咲きなのか、まあ、すごいことになっている。島耕作の名刺&学生証までついてくるという大盤振る舞いである。
私のように、全巻読んでいて島耕作の数々の女性遍歴まで熟知しているような熱狂的なファンにとっては、これだけのリリースラッシュは有難い。内容もそれぞれ面白い(特に学生編が)。
ただ、これだけのリリースラッシュは「最後の闘い」のようにも見えてしまう(MANOWARファンとして、最後の闘いという表現がマイブームなのだが わかる人にしか分からないだろうが)。空気読まずにストレートに言うと、連載打ち切り回避のためのテコ入れ策のようにも感じられる。島耕作に対する誤解をとき、呪縛から解き放たち、新しい読者を獲得するための施策だと解釈した。
のらくろシリーズのように出世する作品、島耕作シリーズの現在について考察する。
島耕作への誤解:もはや「成功・昇進・情愛」ドラマではない
島耕作ファンとして、生きていると悔しい想いをする瞬間がある。ネット上ではたまに、島耕作批判(というか、いじりのレベルなのだが)が起こることがある。昭和のサラリーマンは良かったとか、社畜の物語だとか、女性と不倫や行為を重ねていてゲスいなどである。
たいていは島耕作シリーズを全巻読んでいない人の指摘だ。いや、全巻となると過酷だから、少なくとも「課長編」「部長編」など1シリーズでも良いから全部読んでもらいたいのだが。
たしかに、以前の島耕作シリーズは「成功・昇進・情愛」のトリコロールだとか、サラリーマン男性のお伽話だと言われてきた。サラリーマンが日経文化面に載った渡辺淳一先生の『失楽園』や『愛の流刑地』、彼自身の『私の履歴書』を読んで妄想するかのような。そういう要素はたしかにある。
いきなり余談だが、過去には「成功・昇進・情愛」の話をまとめたベスト版的な本が出たことさえあった。成功、出世のシーンが連続するのは圧巻だった。情愛編はエロいシーンを過度に期待してはいけないが。
話を戻そう。よくネットで展開される島耕作批判は、これぞネットの特性とも言える文脈切り取り型批判である。特定のシーンなどを取り出せば、それは昭和っぽいとか、ゲスいという話になる。
ただ、ストーリーを通して見ると、印象はだいぶ変わる。女性との関係についても、自然な流れであって、行為を目的化しているわけではない。不倫などしてけしからんという話になるが、島耕作は課長編で離婚しているので、不倫が描かれていたのは全作品中でみるとわずかなのである。島耕作を読んだこともない人による作品批判というのはナンセンスだ。切り出し型の批判は特にだ。政治家や経営者の一連の話から一部を切り出して失言扱いするのに似ているといえる(もっとも、一部とは言え、言ってはいけない言葉というものが政治家や経営者にはあるのだけど)。
よく社畜だという批判があるが、島耕作は課長編・部長編においては、「組織」というよりも「仕事」にコミットする男として描かれている。だから、派閥にも所属しなかった。「嫌な仕事で偉くなるより、好きな仕事で犬のように働きたいさ」は名セリフとしてファンの間で語り継がれている。組織に本格的にコミットするのは取締役編あたりからである。もちろん働きぶりは社畜そのものと言えるかもしれない。実際、理不尽なミッションを受けたりもする。課長編、部長編においても左遷を何度も経験している。だから、単純な成功や昇進のドラマとは言えないのである。会長就任に至っては、業績の責任をとった社長辞任によるものであり、美しい昇進とも言えない。
私たちはまず、島耕作に対する誤解をとかなくてはならないのだ。これは単純な成功・昇進・情愛の物語ではないのだ。
わかりやすい学生編、会長編、外伝の棲み分け
もっとも、島耕作は取締役編あたりから迷走感があったのもたしかである。えらくなるがゆえに、普通の会社員が共感できない作品になってしまった。取締役編、常務編などで描かれていた中国に関する話などは闇社会などの描写に走ったため、何の作品なのかわからなくなってしまった瞬間もあった。専務編、社長編にいたっては、ビジネス週刊誌の漫画版のようなものとなっていた。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』並みに文字数が多くなっていった時期もある。
島耕作へのテコ入れは何度も行われてきた。「えらくなりすぎたために共感できない問題」を打破するためなのか、『イブニング』でヤング編というものが始まった。一部、もともとのストーリーとの矛盾などがありつつも共感できる話にはなってきた。
試行錯誤を経た上での現在の『イブニング』での『学生 島耕作』、『モーニング』での『会長 島耕作』、そして不定期で掲載されてきた外伝的作品というのは良い棲み分けだと私は解釈している。
学生編は、1960年代後半の、学生運動が盛んだった時期の学生生活を描いている。島耕作と学生運動との距離感が絶妙だ。あの時期の学生が必ずしも学生運動に没頭していたわけではない。一部の学生が北朝鮮のことを地上の楽園だと信じていたという描写も面白い。進路をめぐる議論も共感できる。性生活も若さゆえになかなかドラマチックだ。作品の盛り上がりを見ても、弘兼憲史氏にとって、最も描いていて楽しい作品なのではないかと感じる。
会長編は、ビジネス事情を紹介するビジネス週刊誌的要素と、ドラマ性のバランスがやっと取れるようになったといえるだろう。島耕作と大町久美子は結婚したし、もはやエロいシーンを期待できない年齢になってしまったのだが(これを、濡れ場のない怒りと呼ぶ)、円熟した夫婦の愛を描いているのがいい。
外伝は、ビジネス事情、人物の紹介に振り切っている(島耕作が自動運転車にチャレンジする話などは、ドラマとしても面白かったが)。NHKでの番組と連動したのも良いチャレンジだった。
上手く棲み分けをして(すくなくとも、させようとして)、ファン層も分けようとしているのが、現在の島耕作のラインナップなのだ。内容も単なる「成功・昇進・情愛」から大きく離れようとしている(学生編は情愛のシーンがいっぱいだが)。
さらにこれは、「島耕作は何から読めばいいのか問題」を解決する手段でもあると言える。とりあえず、今、連載されているものを読めば良い、それをコミックで最初から読めば良いというわかりやすいつくりにできた。
もっとも、このように長く続いている作品であるがゆえに、様々な利害関係を調整しなくてはいけないし、作品のテコ入れだって必要になる。誤解を呼ぶというのは、それだけ作品が広がっているということなのだろう。以前、私は『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』に関する書籍を書いたが、特に後者の本で触れたのが、売れた作品というのは想像を超える広がり方をし、時に誤解されるのである。島耕作が誤解されるのも長年売れてきたからであろう。
最後に熱烈なファンとして、弘兼憲史氏と講談社に伝えなくてはならないことがある。
それは、今後「島耕作は読者に何を伝えたいのか」という根本的な問いである。
大学生にしろ、会社員にしろ先行きが不透明な時代である。その時代に我々は何を大切に生きるべきなのか、そのメッセージをぜひ発信して頂きたい。学生編にはそれがある。外伝も日本を想う(憂う)メッセージだと解釈した。会長編はやや無色透明のものになってきていないかと思っている。会長編にはまだまだ滾りが足りない。やっぱり熱量がないものは、届かないのだ。
そして、弘兼憲史氏自身が島耕作シリーズに対する誤解をとくためにも、より多くの人と対話するべきだ。私はまだまだ釣り合う人間ではない。いつか弘兼憲史氏と対談できる日を夢みて、今日も、つくり、挑み、超えていくのだ。だから今日も犬のように働くのだ。
要するに何が言いたいかというと、私は島耕作が大好きな人材なのだ。
今すぐタクシーを止めて「書店!」と叫び、島耕作最新刊3作を手にとって頂きたい。迷ったら、学生編からぜひ。
※この記事はNews Picksでピックしないように。