多くの死者を出した、宝暦治水
江戸時代には手伝普請という名目で、大名が大規模な土木工事に駆り出されることがしばしばありました。
それは大名にとって非常に大きな負担となりましたが、その中でもとりわけ多くの犠牲者を出したのが宝暦治水です。
この記事では宝暦治水の軌跡について取り上げていきます。
江戸時代随一の巨大プロジェクトだった難工事
1754年、幕府は薩摩藩に対して木曽川三川工事への助役を命じました。
当時、財政難に直面していた薩摩藩では、幕府からのこの命令を嫌がらせと受け取り、内部で対抗策を求める声も上がったのです。
しかし、最終的には藩主の島津重年が幕府に普請請書を提出し、工事への参加を決定しました。
同年1月末には、総奉行の平田靱負、副奉行の伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発します。
947名もの薩摩藩士が工事に従事しました。
平田は大坂で資金調達を行い、砂糖を担保に7万両を借り入れ、その後岐阜県に入り工事に取り掛かります。
工事は1754年2月に始まり、5月に第一期が完了。第二期は同年9月から始まり、翌年3月に終了しました。
工事中、薩摩藩の人員不足が問題となり、平田は本国や江戸藩邸に増員を要請しています。
また、1754年8月には工事現場で赤痢が流行し、多くの藩士が病に倒れました。
報告によると、現場の藩士の半数が病にかかり、数十名が死亡したのです。
江戸でも病気が蔓延し、200名もの藩士が亡くなったと伝えられています。
さらに、工事中には多くの薩摩藩士が自害しました。
特に1754年4月14日には、永吉惣兵衛と音方貞淵が指揮していた堤が破壊され、これに抗議して自害したと伝えられています。
最終的に工事全体で薩摩藩からは52名の自害者が出たとされ、彼らの犠牲は歴史に深く刻まれているのです。